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|  境内案内  | 歴史 |
写真1 写真2

[ 寺号 ]     楞 厳 山    妙 法 寺 (日蓮宗)

[ 所在地 ]
     妙法寺は、JR横須賀線の名越踏切りの北にあります。鎌倉駅始発のバスの逗子方面に乗ると、10分ほど、バス停の名越で降ります。バス停の先に信号のある交差点があります。道は右にカーブしますが、そこから分かれて直進する狭い道に入ります。
     100メートルほどで正面に安国論寺が見えてきますが、その手前を左に曲がります。50メートルほどで右手に妙法寺に入る道があり、閉じた惣門が見えます。手前の左に境内へ入る参道と受付があります。

[ 妙法寺の古建築 ]
     山門本堂庫裏を地図から見る場合は、下の図の該当する「白抜き文字」をクリックしてください。新たなページとして開きます。
|  惣門 |  本堂 | 仁王門 | 法華堂 |
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[ 境内案内 ]

     受付で拝観料を払って、草花で囲まれた参道を進むと本堂が見えてきます。
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     本堂の右手から、本堂に沿うように奥に進み、右手にある大覚殿 (中央に釈尊、右には細川家寄進の加藤清正公像、左には妙法稲荷大明神を祀ります。) を過ぎると、石段の先に仁王門が見えてきます。
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     仁王門の先には、苔に覆われた石段があります。このため苔寺とも呼ばれています。保存のため通れません。右側の急な狭い石段を登ります。
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     登ったところの敷地に法華堂があり、日叡上人お手植えといわれる蘇鉄もあります。左手に進むと釈迦堂跡があり、鐘楼が立っています。
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     そこから、さらに石段を登ると、御小庵蹟があります。(写真下左、右は石段下の鐘楼)
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     右手の急な細い道を登ると山の頂上には大塔宮護良親王の墓といわれる宝篋印塔形式のものがあります。 市街を眺めることができます。
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     いっぽう、御小庵蹟の左手に斜面をかなり進むと、南の方 (日叡上人の母) と日叡上人の御墓や日蓮大聖人塔などがあります。
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     戻って、仁王門の左手には、舞踏家のかたなどが扇を供養する扇塚があります。
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[ 歴史 ]
     お寺の伝えによると、建長五年 (1253)、 日蓮聖人が鎌倉に来て布教をしますが、この地に草庵を結び布教の活動をしました。ここは松が多いので松葉ケ谷と呼ぶようになったとのことです。
当時の社会の不安や天災の原因を幕府や他の宗派のせいとして激しく非難しました。そのために、1260年に焼き討ちにあいました。この災難は松葉ケ谷の法難といわれています。

     その後、焼かれた草庵の跡に日蓮聖人が建てた法華堂がやがて本圀寺となります。しかし日静上人(1298-1369)の時の貞和元年年(1345)には、本圀寺は足利尊氏のすすめもあって、京都に移ってしまいます。

     その後、延文二年 (1357) 護良親王の子であり、日蓮宗に帰依した日叡が父の供養のため鎌倉にきて、日蓮聖人ゆかりの地に、延文二年(1357)に寺を再興し、妙法寺とし、また、裏山の頂きに父護良親王の墓を造ったとのことです。

     室町時代には盛で、江戸時代には徳川家の保護が篤く、第十一代将軍徳川家斉はしばしば訪れたとのことです。

     ちなみに、京都の大光山本圀寺によれば、室町時代の貞和元年(1345)、日静聖人の時、この霊跡大光山は光厳天皇の勅諚によって京都六条に東西二町・南北六町にわたる広大な永代寺領を賜り、鎌倉松葉ヶ谷から京都へ立正安国・国祷護国の大道場本圀寺として移遷されるに至ったとあります。

     日静聖人の父は上杉頼重(頼房の子)で、母は足利氏の女といい、足利尊氏の叔父にあたるということで、皇室の庇護と幕府の外護を受け、さらには大衆の尊信を集めました。

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