2012.04.09
5月から7月の「古都鎌倉史跡めぐり」A・B・Cコースを掲載致しております。[毎月恒例の古都鎌倉史跡めぐり]のページをご覧下さい。
2012.02.25
1月14日(土)に本年第一回目の協会定期研修会が開かれ、佐藤治夫会員により、「明治維新と鎌倉の新生活文化の黎明」という演題で行なわれました。
講演の内容はおよそ以下の通りです。
有史以来日本は三回の政治大改革を記録している。
一つ目は、王朝政治にかわる鎌倉の武家政治の設立。
二つ目は、武家政治の明治の中央政権国家への大政奉還と、王政復古による新政府の設立。
三つ目は、昭和の軍事独裁政治の崩壊と民主主義議会政治の設立。
2011年3月11日の東日本複合大災害後の日本の将来展望がいまだに暗中模索にあり閉塞の常態から脱却、解決の方向が見通されていないことである。
“賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ”
この格言の歴史に学ぶとは、将来展望をきわめることであり、経験に学ぶとは、起こったことをみているだけということかと思う。
私は歴史に学ぶことで、二つ目に挙げた日本の政治が変わった幕末から明治維新にかけての政治の大変革後に生れた明治新政府に注目している。
大変革の時代の疾風怒涛の幕末、欧米の先進諸国に支配されない明治の近代国家をめざした人々は日本の変革をどのように捉え駆け抜けたのか、大変興味のあるところである。
当時渡航の制約があっても、海を越え、海外を見聞・体験した人々は世界の覇権を競う
欧米の列強国の野望を排除すべきか、日本はちっぽけな国ではあったが、攘夷か開国かの対立のなかで、命を懸け日本の植民地化を阻止する白熱した議論と行動力があった。
また、この時期に、明治の政治理念として列強諸国に対抗すべく、中央集権体制の
近代国家設立に向けての船の舵を切ってゆく。
一方、武家国家濫觴の地・鎌倉はみすぼらしい半農半漁の景観であった。
しかし、明治へと時代が替わり、欧米の新しい生活文化を取り入れた保養と別荘の
まちとしての、しかも武士のまち鎌倉の歴史と文化が保存された、2つの異なる
文化が習合されている。
では鎌倉の再生に最も影響を与えたのは何であったか。
大変興味のあるところである。
実は、明治の大変革期を越えた人々が鎌倉のまちの再生にも影響を与え、同時に
明治の近代国家設立のために、明治新政府や旧幕府によって招聘された外国の
啓蒙家による貢献もあったことを記憶にとどめるべきことと思う。
私は今回のレクチュアを引き受けるにあたり、今述べたことに興味を持ちつづけ
今まで調べてきたことをまとめてみた。
それがお手許にお配りしたテキストである。
結構な量になってしまったので、与えられた2時間では全てをお話できない。
本日はこの中から話題を選別してお話しする。
話を聞かれて興味をもたれた方は、後日テキストをお読みいただきたい。
私の資料には、私の思いつきで書かれたこともあるかもしれない。
2010年7月3日、90才で他界された、日本民族博物館の創始者・梅棹忠夫氏が
梅棹学で語る言葉が私の心の中に残る。
梅棹さんは、他の人に、語り、記述するときは実に調査研究を徹底する人で、同時に、
歩いて現場歴史を体感し、するどい感性をもって歴史を判断する人である。
梅棹氏のことば
単なる思いつきこそ独創や。思いつきのないものは、要するに本の引用で、
人の真似をするのと同じではないか。
本というものは、しょせん誰かが先に述べたことをかいてあるんだ。
みんなひらめくけれど、それを自分のものとしてとらえることはできていない。
学問から思想は出てこない。思想から学問はあるな。
文明というのは人間が作り出したもの。
誇りを持って語るに足ると思う。
日経プレミアシリーズ 梅棹忠夫を語る の引用
私の思いつきが単なる思いつきに終わることなく、私のひらめきであって欲しいと思って
いる。
梅棹氏の記述を皆さんのガイドの言葉として応用していただければと思う次第である。
1班 佐藤治夫
平成24年1月14日記