トピックス

2019.07.18

満開のブーゲンビリアや凌霄花の下、地震・津波防災避難訓練が行われました。

【想定】「7月13日(土)12時45分、ガイド中に、マグニチュード8.4巨大地震発生により、12.9mの津波発生」
「鎌倉市内5か所から、夫々の避難場所に、8分以内に、到着できるか」
各班単位、自らの足で、確認しました。
訓練後、鎌倉消防署3Fにて、全体会に先立ち、高橋会長から「自分たちの事として、訓練をとらえよう。」と、元気なご挨拶。

14時から、鎌倉市総合防災課・松野様のご指導で、「防災DVD」を視聴。
「地震被害は、防ぐことはできないが、備えることはできる。」
「東日本大震災では、津波到達時間25分だが、南海トラフ地震では、数分。」の状況を映像で確認。
14時30分、各班班長から、本日の想定場所から避難場所への行動報告と、問題点の指摘が提示されました。
「最速8分・最大高14.5m・高いところへ・てんでんこ」自作のプラカード提示。
「避難場所第一中学の裏山は、がけが崩れそうで危険」
「指定されている由比ヶ浜KKR鎌倉わかみやビルには、本当に避難できるの?」
「避難場所が2箇所あれば、川を渡らない方を選ぶ」
など、各班で体感した発言がありました。

「『助かるんだ』の強い気持ちが、自らを助ける。」
「情報を待っていては、遅れる。感じたら行動。」の鎌倉消防署・松野様からの強い助言で、参加ガイド60名は、防災意識を高めました。(林 国雄記)


2019.07.14


このところ鬱陶しい毎日が続いていますが、七夕が終わり、そろそろ本格的な夏の暑さが始まる頃です。
木立の緑もますます色濃く感じられるようになりました。
皆様、お元気でお過ごしでしょうか。

7月の異称は文月。旧暦では稲穂が出る頃で、「穂見」や「含み」に由来し、稲穂の膨らみを見る月であるため、「穂含月(ほふみづき)」から転じたといわれています。
七夕の短冊に願いを書いたことから「文」の字を当てたともいわれるようです。

さて、今月の史跡めぐりですが、Cコースの平塚八幡宮・七夕まつりは既に実施終了、Aコースもお申込締切日を過ぎております。
残すはBコース「海風そよぐ緑の江の島~東京オリンピックまで1年、セーリング競技会場も見学~」のみですが、お時間がありましたら、是非ご参加下さい。
江島神社のお詣りはもちろん、来る東京オリンピック2020でセーリング競技会場になるヨットハーバーも訪れます。
セーリングワールドカップシリーズ江の島大会(8/25~9/1)目前で各国の選手達も多く、いつもと違った江の島を発見できるかもしれません。
どうぞご期待ください。

(画像は、平塚八幡宮で短冊奉納するご参加の皆様です)


2019.07.07

鎌倉ガイドにとって、建長寺は、語り尽きない。関谷さんの目を通して、三門 方丈 仏殿 総門 唐門 西来庵山門 正続院 半僧坊 について伺いました。

<三門>                                         
建長寺総門をくぐると直ぐに三門がある。三間二階二重門としては鎌倉最大の門で、後深草天皇の筆になる大扁額「建長興国禅寺」を掲げる。後深草天皇は、建長寺創建時の天皇で、鎌倉幕府の全盛期ともいうべき五代執権時頼から八代執権時宗の時代を京において天皇、上皇として過ごされた興味深い姿が「増鏡」や「とわずがたり」などの記録に残されている。

<後深草天皇>                                      
後深草は、後嵯峨天皇を父とし西園寺実氏の娘で中宮姞子を母として寛元元年(1243)6月に生まれた。同母弟に亀山天皇が、異母兄に建長寺第14世となる高峰顕日、鎌倉幕府将軍となる宗尊親王がいる。                                
寛元四年(1246)6月、後深草は4歳(数え年、以下同様)で即位し、父後嵯峨上皇の院政が始まる。
建長五年(1253)11月、建長寺は落慶供養。この年の正月、後深草は11歳で元服した。増鏡は「いとあてにおわしませど、余りにささやかにて、又、御腰などあやしく渡らせ給ふぞ口惜しかりける。」と、上品ではあるが小柄で腰もしっかりと立たないのが残念だと伝えている。この為もあってか後嵯峨は、活発な亀山を寵愛し、後に持明院統、大覚寺統の分裂を生む。元正元年11月(1260年1月)、後深草(18歳)は、亀山(12歳)に譲位させられた。               
文永九年(1272)、後嵯峨法皇崩御、後嵯峨は、治天の君の決定を幕府にゆだねた。幕府は、後深草、亀山両人の母である大宮院(姞子)に後嵯峨の意図を確認し、亀山天皇(24歳)の親政が始まる。   
文永十一年(1274)蒙古襲来の年、亀山は後宇多天皇に譲位して上皇となり院政を始めた。皇統は亀山の系統に決定的となり後深草は不満を募らせた。翌春、後深草はついに上皇退位の意向を漏らす。驚いた幕府は、後深草の皇子伏見を亀山の猶子として立太子させ、後深草は退位を思いとどまった。

<治天の君>                                       
弘安十年(1287)、霜月騒動の後、幕府は、後宇多の退位を奏請し、伏見天皇が即位した。その2年後、後深草の孫・後伏見(2歳)を立太子させ、さらに、鎌倉の将軍惟康親王を京都に送還し、後深草の皇子久明親王を将軍として鎌倉に迎えた。後深草は、天皇と将軍の父となり、治天の君として都に君臨した。
正応三年(1290)、後深草は日記に次のように書き残し出家する。
「今生の栄を思い、いよいよ来世の果を恐れ、たちまち太上天皇の号を解き、すみやかに釈尊の遺弟として、二世の願望成就の条、喜悦肝に銘ずるものなり。」満足した気持ちが素直に残されている。

<方丈>                                         
方丈は、創建当初から建立されたが何度か災害にあい、寛永十年(1633)、建長寺を訪問した沢庵和尚は、「方丈は百年におよびこれ無く・・」と記述。それから間もない寛永十八年(1641)再建されたが、その方丈も関東大震災で倒壊した。現在の建物は、昭和15年(1940)、京都の般舟三昧院から移築された。

<般舟三昧院の歴史>                                     
般舟三昧院(以下、般舟院)は、文明年中(1469~87) 後土御門天皇(鎌倉光明寺を勅願所とし、十夜法要を許した天皇)が、幼少期を過ごした離宮の伏見殿を勅願寺としたことに始まる。当初は真言・律・天台・浄土の四宗兼学で、東山の泉涌寺とともに皇室の香華院であった。伏見殿は、後深草が伝領し持明院統に伝えられた長講堂領の離宮で 、後深草が亀山や後深草二条らと過ごした記録が残る。   
文禄三年(1594)、般舟院は、当地に伏見城を築城した豊臣秀吉の命で千本今出川に移された。
明治四年(1871)、神仏分離にともない、般舟院に安置されていた歴代天皇の位牌は泉涌寺に移され、敷地の大部分は、上京第七番組小学校(現在の嘉楽中学校)となった。今、嘉楽中学校の門前に「禁裏道場跡」の碑がたつ。石碑左側面に、碑文が刻まれている。「本校元講堂ハ御歴代御尊牌ヲ奉安セシ所ニシテ本校元正門ハ桜町天皇御殿門ノ下賜ニ係レリ」 「今年(昭和十五年)夏建長寺ノ懇請ニ遭ヒ大正十二年震災大破ノ仝寺複旧ヲ助援シ前記講堂正門ノ二ツナガラ仝寺ニ諒与セリ」  
般舟院は、享保十五年(1730)大火に遭って霊牌殿が被災し、その後、享保十七年(1732)に再建された。建長寺総門も般舟院より移されたものだが、その前歴は、桜町天皇御殿門で、天明三年(1783)の建立。

<仏殿>                                          
仏殿は、寛永五年(1628)徳川第二代将軍秀忠夫人崇源院の御霊屋(霊牌所)として芝増上寺に創建され、20年を経て、正保四年(1647)、建長寺に仏殿兼法堂として移された。何故、由緒ある建物を移すことになったのか?二説ある。式年遷宮にならい創建20年を経た御霊屋の作り替えであるとの説と、崇源院の葬儀とこの御霊屋を差配した家光の弟忠長への遺恨がその理由だという説である。

<崇源院、家光、忠長>                                        
崇源院は、秀忠との間に、家光、忠長ら2男5女に恵まれた。秀忠や崇源院は、病弱で吃音があった竹千代(家光)よりも容姿端麗・才気煥発な国千代(忠長)を寵愛した。そして、それらに起因する竹千代擁立派と国千代擁立派による次期将軍の座を巡る争いがあったが、元和元年(1615)春日局による家康への直訴により、竹千代の後継指名で決着したことはよく知られている。       
元和九年(1623)家光は征夷大将軍の宣下を受ける。

<寛永三年(1626)>    
この年9月、大御所となった秀忠と将軍家光は、京都二条城に後水尾天皇を迎えた。所謂、「二条城行幸」で、徳川の世となったことを天下に示す一大デモンストレーションであった。5日間に渡る行幸を終えた翌日の9月11日、江戸より早馬が到着する。徳川実記は、「此日関東より大御台(崇源院)御病危篤のよし告げる。・・・駿河大納言忠長卿は即日出京有りて、夜を日について道を急ぎはせ下らる」と伝える。しかし、15日崇源院は亡くなり忠長は間に合わなかった。秀忠と家光は、それぞれ太政大臣、左大臣に昇任、その後も行事が続き、直ぐに江戸に戻るわけにはいかなかった。     
崇源院の葬儀が行われたのは10月18日であった。麻布野で荼毘に付され、芝増上寺に葬られた。忠長がこれを行った。秀忠は駿府にあって代理を送った。家光の動静の記録はない。

<崇源院霊牌所と唐門>                                    
寛永五年(1628)9月崇源院三回忌に合わせ増上寺に霊牌所が造営された。9月10日 家光はこの霊牌所に詣でている。寛永十一年(1634)頃に作られたとされる「江戸図屏風」(国立歴史民族博物館所蔵)に、秀忠の台德院霊廟の北隣に単棟の崇源院霊牌所が鮮やかに描かれている。これが現在の建長寺仏殿で、後に方丈前の唐門と西来庵の唐門とともに移された。屏風絵をよく見ると霊牌所前の中門は、平唐破風門である。ということは西来庵唐門ということになる。では、現在方丈の前の向唐破風の門はどこにあったのか? 昭和34年、戦災を受けた増上寺墓地の調査が行われた。崇源院の墓塔と伝わる石造の八角宝塔の土台が除かれると、その地中から複数の石造物が出てきた。組み立てれば5mを超える宝篋印塔で、塔身に崇源院の名が刻まれ、その櫃の中には木炭と人骨があった。崇源院の最初に造られた宝塔である。報告書は、その埋設の様は粗略で意外の感を受けたと記録している。              
二代目の墓塔である八角宝塔の前には、明治初年まで唐門が建っていた。建長寺方丈の前にある向唐破風の唐門は、初代の宝篋印塔の前に建っていたと想像することができないだろうか? そして、家光と秀忠の確執を垣間見る思いがしないだろうか?

<正統院>    
正統院は、高峰顕日の塔頭で、江戸初期には荒廃し、春日局により中興された。今、正統院本堂に「中興開基 麟祥院殿仁淵了儀尼大姉」と書かれた春日局の位牌が残る。            
何故、正統院は、春日局によって中興されたのか疑問に思っていたが、最近、正統院本堂にある高峰顕日坐像の胎内納入木札にその答えがあることを知った。木札には「征夷大将軍家光公の命を以て、(春日局を)正統庵中興開山と成さ令む」とあった。将軍家光の命令であった。その故は、西岸院の庵を正統庵に移すためだという。西岸院とは、崇源院の従姉妹で春日御局之内の人であった。崇源院の死後、出家して鎌倉で崇源院の菩提を弔った。その西岸院が亡くなったので庵を移すのだという。では何故、家光は正統院を中興し移させたのか? 当時、正統庵を訪ねた沢庵和尚は「空房にして白日老鼠が行きかい、野狐、夜に入りて宿す。」と嘆いている。建長寺や正統庵の荒廃を家光に知らせるものがあるとすれば、家光が帰依した沢庵ではないだろうか。しかし、沢庵は正統院を何故そこまで気遣ったのか? 沢庵は大徳寺派の僧だが派祖の宗峰妙超は長く高峰顕日のもとで修業したので、大徳寺派の人達は高峰顕日を派祖同様に大事にするとは正統院ご住職のお話であった。正統院は寛永十六年(1639)中興、建長寺の仏殿の移建は、正保三年(1647)で沢庵が亡くなった翌年の事である。

<半僧坊 品川 沢庵和尚>    
半僧坊の石造手すりには「品川講社」「北品川相模楼」の文字が読み取れる。お気づきであろうか?多くの品川の貸座敷の名が刻まれている。また、畳職、鳶、廻船などの職種もみることができ品川宿の人々の講社が造ったことが分かる。講元の板には明治36年と刻まれている。品川宿の西に家光が沢庵を開山として創建した東海禅寺がある。かつては塔頭17を数える大寺であったが、明治になって学校用地や鉄道用地に切り刻まれた。わずかに残された墓地に沢庵は眠る。辞世の偈は「夢」であった。

建長寺を往きつ戻りつ、思いつくまま所縁の人々のことを想い、調べているうちに思いがけずも、幾多の縁を知ることとなった。今日の話は、私の見た「夢」みたいなことでしたが、お楽しみいただけたなら幸いです。

 

(講演内容は、パワーポイント96枚。文章A4 22ページと膨大なものでした。)
*****もう少し調べてみたい。この細い道を行ったら、何処に行くのか?つい、スケジュールに追われ、出来ないままに居たことを、関谷さんは、やってくれました。最初は、小さな気づき「おや」から、疑問「?」、調べる。これは楽しく、時間を忘れます。次の疑問につづく。この波に乗り遅れた方のために、まとめてみました。直接、関谷さんに、お尋ねいただくのもいいですね。(林国雄記)


2019.07.01


PART8に引続き、PART9の会員募集案内です。
鎌倉とその周辺では毎月伝統のある「祭」が神社や寺院で行われています。
「祭」それは神・仏への饗応であり「饗応」の本番は会食といえます。
「祭」を楽しみ、合せて鎌倉と周辺の名店で「会食」を楽しむ参加者を募集します。
ベテランのガイドが祭りの解説をし、ご案内を致します。
【祭】:PART9
第1回 達磨忌(円覚寺)        2019年10月 5日(土)
第2回 一ッ火(遊行寺・藤沢)       11月27日(水)
第3回 火伏まつり(満福寺・小田原) 2020年 1月28日(火)
第4回 花まつり(建長寺)           4月 8日(水)
第5回 瀬戸神社例大祭(瀬戸神社・横浜)   5月15日(金)
第6回 祇園舟(富岡八幡宮・横浜)      7月12日予定
第7回 皇大神宮例大祭(皇大神宮・藤沢)   8月17日(月)
(祭は事情により、変更する場合があります)
【食】:各地域の名店(その都度ご案内します)
*会員は「祭」と「食」両方に参加していただきます*

[募集定員] PART9:40名 (お申し込み多数の場合は抽選になります)
   ※応募条件:全7回中5回以上に出席可能な方
[応募締切] 2019年8月20日(火)(必着)
[参 加 費] 年会費(通信費他):2,000円  (初回参加時にいただきます)
        各 回 参 加 費  :1,000円/回(各回参加時にいただきます)
※会食費は実費負担:2,000~3,500円、 ※拝観料・交通費は別に実費負担
[参加お申込み方法]
 ○往復はがきに、①コース(「祭と食」PART9)、②住所、③氏名(ふりがな)、④電話番号
(固定および携帯)、⑤FAX番号、⑥メールアドレス(所有の場合)を明記の上、申込先へ
お送り下さい。 
※お申込みは一通につき1名様。往復はがき以外のお申込みは無効です。
 ○当選した方には会員証(詳細についてはその都度ご案内)をお送りします。
[申込先] 〒248-0014 鎌倉市由比ガ浜4-1-1
     NPO法人 鎌倉ガイド協会 「祭・食」PART9係
[問合せ] 9:30~15:30(休日:第2土曜日) TEL:0467-24-6548 FAX:0467-24-6523


2019.06.22

6月ABCコースの実施日10日が恙無く終了しました。
特に6月Aコース最終実施日20日(木)は天候にも恵まれ、申込数155名に対し予想を上回る161名のお客様がご参加下さり、大盛況でした。
多くのお客様から、「一条恵観山荘」や滑川に架かる「橋」めぐりという新しい切り口のコースをご称讃いただきましたこと、改めましてお礼申し上げます。

さて、7月史跡めぐりはまず特別企画のCコース(5日、6日)から始まります。平塚八幡宮「開運七社詣」と七夕まつり、締め切り日が近づいてきています。どうぞ奮ってご参加下さい。
Cコース終了後は中旬にAコース(山水納涼の霊場 神武寺の特別拝観)、下旬にBコース(海風そよぐ 緑の江の島)が控えています。

毎月変わる鎌倉ガイド協会の史跡めぐり、お客様に喜んでいただけるよう、コース企画等全力で取り組んでいます。どうぞ奮ってご参加下さい。

(画像は神武寺の緑豊かな裏参道で)


2019.06.10


いつのまにやら入梅、そして梅雨時のはっきりしない空模様が続いています。
6月は水無月と言われ、新暦では梅雨時ですが、旧暦では梅雨が明けた夏の酷暑の頃。厳しい日照りが続き田の水も涸れて干上がり、「水の無い月」という事から、このように呼ばれたようです。また、田に水を張る「水の月」という説もあるそうです。
梅雨冷えの折、皆様、どうぞくれぐれもお身体を大切になさって下さい。

さて、今月の史跡めぐりのお誘いです。
Aコースでは「滑川」を遡り、10の橋を渡ります。コースの最後は、一条恵観山荘。庭園では、日本古来の山紫陽花を存分にご鑑賞いただけることと思います。
Bコースは東国花の寺、「東慶寺・浄智寺・海蔵寺・英勝寺」を訪れ、当協会員による落語をお楽しみいただきます。
特別企画のCコースは中の道シリーズ第5弾、畠山重忠公ゆかりの旧跡をめぐります。

美しい紫陽花が咲き揃う季節、どうぞ、今月も鎌倉ガイド協会の史跡めぐりで楽しい一日をお過ごし下さい。
ご参加、心よりお待ちしております。
(画像はAコースから東勝寺橋です)


2019.06.01


2019年度はPART8とPART9を催行いたしますが、今回はPART8の募集案内です。
鎌倉とその周辺では毎月伝統のある「祭」が神社や寺院で行われています。
「祭」それは神・仏への饗応であり「饗応」の本番は会食といえます。
「祭」を楽しみ、合せて鎌倉と周辺の名店で「会食」を楽しむ参加者を募集します。
ベテランのガイドが祭りの解説をし、ご案内を致します。
【祭】:PART8
第1回 薄念仏(遊行寺)      2019年 9月15日(日)
第2回 湯立神楽(白旗神社)         10月28日(月)
第3回 御鎮座記念祭(鶴岡八幡宮)       12月16日(月)
第4回 左義長(大磯北浜海岸)   2020年 1月12日(日)
第5回 節分会(遊行寺)            2月 3日(月)
第6回 国府祭(六所神社・大磯)        5月 5日(祝)
第7回 建長寺開山忌(建長寺)         7月23日(木)
(祭は事情により、変更する場合があります)
【食】:各地域の名店(その都度ご案内します)
*会員は「祭」と「食」両方に参加していただきます*

[募集定員] PART8:40名 (お申し込み多数の場合は抽選になります)
   ※応募条件:全7回中5回以上に出席可能な方
[応募締切] 2019年7月22日(月)(必着)
[参 加 費] 年会費(通信費他):2,000円  (初回参加時にいただきます)
        各 回 参 加 費  :1,000円/回(各回参加時にいただきます)
※会食費は実費負担:2,000~3,500円、 ※拝観料・交通費は別に実費負担
[参加お申込み方法]
 ○往復はがきに、①コース(「祭と食」PART8)、②住所、③氏名(ふりがな)、④電話番号
(固定および携帯)、⑤FAX番号、⑥メールアドレス(所有の場合)を明記の上、申込先へ
お送り下さい。 
※お申込みは一通につき1名様。往復はがき以外のお申込みは無効です。
 ○当選した方には会員証(詳細についてはその都度ご案内)をお送りします。
[申込先] 〒248-0014 鎌倉市由比ガ浜4-1-1
     NPO法人 鎌倉ガイド協会 「祭・食」PART8係
[問合せ] 9:30~15:30(休日:第2土曜日) TEL:0467-24-6548 FAX:0467-24-6523


2019.05.27

連日、はや本格的な夏を思わせる日盛りです。お変わりございませんでしょうか。

5月26日(日)、市内一斉清掃「クリーンアップかまくら2019」に当協会からも11名参加し、晴天の下、下馬から二の鳥居間の清掃に携わりました。
元気な協会員たちのスナップ写真です。


2019.05.13

満員御礼
5月特別企画Cコース(浄楽寺運慶仏と葉山御用邸)の実施日令和元年6月1日(土)は、定員に達しましたので、申込を締め切りました。ありがとうございました。


2019.05.08

携帯用メールアドレスで、史跡めぐり定型フォームからお申込のお客様は、ご自身で、
迷惑メール防止機能の受信拒否などを設定されていない場合でも、携帯電話以外からのメールは受信しないよう、
標準設定されていることがあります。その場合、当協会からの返信は届きません。

ご不明な場合は、ご契約中の携帯電話会社へお尋ね下されば幸いです。
なお、当協会では、リターンメールには極力、電話連絡を入れて対処しております。


2019.05.01

新たな気持ちを胸に進んで行きたいですね。
皆さまのご健康と益々のご活躍をお祈り致します。

さて、風薫る5月は皐月の異称があります。
旧暦では梅雨。「皐月晴れ」は梅雨の晴れ間のことでした。早苗を植える「早苗月」の呼名が略されたと云われています。また、耕作を意味する古語の「さ」に、「神にささげる稲」という意味がある「皐」を当てたとも。

鎌倉ガイド協会の今月の史跡めぐりAコースは、明月院拝観後、明月院口から天園ハイキングコースに上り、大平山を経て、珍しく釜利谷方面に向かいます。昇堂する白山東光寺はもと鎌倉薬師堂ヶ谷(現鎌倉宮辺り)にあって、医王山東光寺と称し、畠山重忠公開基と伝わるお寺。歴史ファンの多い、頼朝公の寵臣・畠山重忠公を偲ぶいい機会です。
また、Bコースは、鎌倉幕府が壊滅した元弘3年(1333)5月22日に因み、極楽寺の転法輪殿に安置される新田義貞公の陣太鼓をご覧いただき、古戦場ゆかりの場所を歩いて、歴史の真実を探ります。
Cコースは、申し訳ないのですが今月は定員制(150名)でして、6月1日(土)のみ、現時点で若干の空きがあります。参加ご希望の方はお急ぎ下さい。
毎度のご贔屓、心より感謝しております。

それでは、皆さま、今月も鎌倉ガイド協会の史跡めぐりで楽しい一日をお過ごし下さい。

(画像は葉山公園から御用邸に向かう折、渡る臨御橋です)


2019.04.22


平成31年4月13日定期研修会が開催されました。テーマは「梵字の基本・ガイドで使う用語の注意点」、講師は鎌倉ガイド協会会員の相澤孝之さんです。

テーマ1「梵字の基本」
(1)金剛界五仏

金剛界五仏とは、中心に大日如来、東方に阿閦如来、南方に宝生如来、西方に観自在王(阿弥陀如来)、北方に不空成就如来がおられます。これを梵字で表しますと、中心が「バン」、東方が「ウン」、南方が「タラク」、西方が「キリク」、北方が「アク」になります。
金剛界大日如来の「バン」は、よく皆様もお目にかかるでしょう。一生の内、もっとも多く見かける梵字は「バン」です。お墓に必ずあります。
次に多いのが「キリク(ふつうはキリークという)」です。「キリク」は阿弥陀如来です。今日は何で「キリク」というのか「キリク」はどう書くのかについてやっていきたいと思います。
板塔婆は五輪塔と全く同じ形態をしています。このお塔婆の裏側には、「バン」という梵字が入っています。
梵字の成り立ちですが、「バ」という梵字に空点が上に付くと「バン」と読みます。空点が付くことで「ン」がプラスされるのです。空点に三日月を付けてかっこつけたのが、荘厳点と呼ばれるものです。
また、右側に点が二つ付くと、読み方の最後が「ク」になります。この点を涅槃点といいます。「キリク」「タラク」「アク」となります。
(2)胎蔵界五仏

胎蔵界五仏とは、仏教の尊像の一種で金剛界曼荼羅とともに、密教では重視されているものであります。胎蔵界五仏では大日如来を「アーク」といいます。
下の方が丸まっていると「アー」と伸ばします。そして空点があるので「アーン」となります。また涅槃点があるので「アーンク」となります。これを五つの部分から成り立っているので「五点具足のアーンク」といいます。深沢小学校の梶原氏の墓の所にあります。「胎蔵界大日如来」と言い、真言宗のお寺で使います。
あ字の変化         すべてに共通
 東    法身門(発心門) ア
 西    修行門      アー
 南    菩提門      アン
 北    涅槃門      アク         
五点具足のアーンク→
角塔婆に書かれています。五輪塔も同じです。
五輪塔が地震などで崩れて、このような知識のない人が組み直すと順番がバラバラになってしまいます。
(3)体文と摩多
梵字で、表音文字を「体文」といいます。「摩多」は文字の元になるものを言います。ラテン語で根源なるものという意味であります。
それでは、文字を書く練習をしてみましょう。「キリク」を書いてみます。
「キリク」は普通は阿弥陀如来ですが、場所によっては仏も変わります。光明寺の左手の千手院の石に刻まれているのは千手観音です。
初期日本ではH音がありませんでした。よってH音をK音に変えていました。例えば上海といいますね。日本では「海」は「カイ」。中国では「ハイ」になっています。日本語独特の変化です。
西洋の文字研究から梵字もいろいろわかってきました。ところで「あ」という字ですが、人によって書き方に開きがある。何故ならアジの開きというから…(笑)

テーマ2「ガイドで使う用語の注意点」
(1)読み方が一つしかない言葉
 読み方が一つしかない言葉があります。例えば「衆生」です。これは「しゅじょう」と読みます。
「二世安楽」は「にせあんらく」と読みます。江の島の道標にありましたね。これを「にせい」と読んでしまうと、自分の子供のことになってしまいます。現世も当来世も安楽に生きられますようにという意味です。
また「三世仏」は「さんぜぶつ」で過去世、現在世、未来世を表しています。
「本覚寺」は「ほんがくじ」、「覚園寺」は「かくおんじ」、円覚寺は「えんがくじ」です。円覚寺そばの信号にもローマ字で「ENGAKUJI」と表示されています。
最近は外国の観光客も増えて、外国人は正しい読み方をしていますので、我々も正しい読み方に徹底しましょう。
*「四」は「し」が基本で順を表す「よん」
 「二十四節季」は「し」、「阿弥陀の四十八願」は「し」、「四苦八苦」は「し」、「四等官」は「し」、「四等賞」は「よん」、「第四世住職」は「よん」、「四番目」は「よん」と読みます。
「四十八」というのは、なじみの多い数字で、例えば相撲の四十八手、また、みなさんよく御存知の「AKB48」もそうです。因みに「阿弥陀の四十八願」は「AMD48」になります。(笑)
また、順番をあらわすときは、「よん」と読みます。江戸時代に富くじがはやったころから「よんとうしょう」というようになったそうです。
(2)説明の仕方が間違っている場合
* 琵琶小路について
「琵琶小路は【昔ここに弁天様の小祠があり、この祠を避けて道が外側に曲がっていた形が琵琶に似ていたから】というのは間違いです。新編鎌倉志によると【道が外の方に屈曲していた形が、楽器の琵琶によく似ていたことから】となり、また鎌倉攬勝考(植田孟縉)によると【昔ここに弁天様の小祠があり、この祠を避けて道を曲げていたが、頼朝がこの弁天祠を鶴岡八幡宮に移して、道を真直ぐにした。この弁天様の像が琵琶を抱えていたことから】という説があります。最初の間違いは、2番目と3番目を一緒にしていることです。
一般的に琵琶をもっている弁天様がいらっしゃる道を琵琶小路と呼ぶことが多いです。
*頼朝を佐殿と呼ぶのは
子ども風土記では【頼朝が幼少のころ佐殿と呼ばれていたため…】となっていますが、本来は【頼朝は右兵衛(権)佐という官職に就いていたから。関東において、「佐」の官職を持つものはいないので「佐殿」は自分たちより身分の高い方の意味をもつ】のであります。「佐」は国家公務員で次官です。12歳の時で、幼少の時ではありません。
四等官(しとうかん)とは律令制で諸官庁の管理職です。
①長官(かみ)  督    守    卿    頭   業務の統轄
②次官(すけ)  佐    介    輔    助   その補佐
③判官(じょう) 尉    掾    丞    允   一般事務
④主典(さかん) 志    目    録    属   文書の作成
(3)役の表記について
「後三年の役」は21年前に「後三年合戦」に表記が変わりました。
「平忠常の乱」がなかったら鎌倉幕府もなかったし、鎌倉ガイド協会も存在しなかったかもしれません。平忠常に感謝しなければなりません(笑)
現在では「文永の役」「弘安の役」のみに使われています。
文永の役と弘安の役について、当時日本側は、「蒙古襲来」「蒙古合戦」「異国合戦」などと呼びました。一方、「元寇」の語は、水戸藩が編纂した「大日本史」で用いられ、江戸時代後期における国学の発達とともに広まりました。明治以降、国家主義が高揚すると「元寇」の語は教科書のなかに定着し、第二次世界大戦期には「神風」などの語とともに流行しました。しかし、戦後は次第に使われなくなり近年は「蒙古襲来」「モンゴル襲来」が定着するようになりました。
他に「文禄の役」「慶長の役」が使われていましたが、現在は「秀吉による朝鮮出兵」に変わってきています。
* 前九年の変遷
鎌倉時代の「古事記」「愚管抄」「古今著聞集」では、「奥州十二年合戦」と呼ばれており、「紙本著色前九合戦絵詞」のように合戦と表記されています。「源平盛衰記」「太平記」から「前九年の役」という表記が広まり、一般化しました。「役」には華夷思想(異民族蔑視)の意味合いがあります。
「奥州十二年合戦」の約21年後に「後三年合戦」が起こりました。その後、「奥州十二年合戦」は「前九年合戦」と変わり、江戸時代には「前九年の役」に変わりました。
「奥州十二年合戦」が「前九年」「後三年」を合わせたものと誤解され、後三年の中に十二年合戦の最後の3年間が混ざり、区別が出来なくなりました、
* 明治以降の変遷
陸軍参謀本部がこれまでの戦いを「…の役」に統一。例えば「明治三十八年戦役」(日露戦争)、「関ヶ原の役」
国史の教科書「稿本国史眼」に「前九年の役」「後三年の役」と明記され、それが基準となり、小学校の教科書に記載されました。明治の終わりには「役」は【異民族・他国との戦い】として区別されました。
結果として「役」は、「前九年」「後三年」「文永・弘安」「文禄・慶長」「西南の役」が残りました。
戦後、鹿児島県より「西南の役」の表記に対し抗議(異民族の隼人族の反乱と定義されたことに対して)があり、1970年初めに近代日本最大の内戦として「西南戦争」に改められました。
また、アイヌその他の人々を日本人化するという「旧土民保護法」が、最近(1997年)になって廃止されました。これは前九年や後三年が「役から合戦に」なったことと同様の理由に依ります。
* 系図
中世・古代における女性名(皇室を除く)を系図に書き入れないようにしてください。清子とか登子など、〇子の形の名は大河ドラマで製作上造られた名であり、歴史上の名ではありません。例外は清盛の後妻の時子、北条政子、日野富子、くらいです。皇室の内親王以上の名前が〇子であり、上記3人は特例です。
…………………………………………………………………………………………………………………
普段余り意識しなかった梵字について、読み方、書き方、文字の成り立ち等、丁寧にわかりやすく教えていただきました。お墓でみかけるお塔婆に、このような意味があることも改めてきづかされました。又、ガイドとして間違った読み方、間違った知識を戒め、自分で調べることの大切さを再認識させられました。
そして時間が足りなくなり最後まで説明を聞けなかったことは残念に思います。又機会がありましたら、是非続きをお聞かせください。
本日は大変ありがとうございました。(新井洋子速記)


2019.04.09

5月特別企画Cコース(浄楽寺運慶仏と葉山御用邸)の実施日令和元年5月28日(火)は、定員に達しましたので、申込を締め切りました。ありがとうございました。
なお、実施日令和元年6月1日(土)は、引き続き申込を受け付けております。


2019.04.06

4月6日(土)鎌倉市の後援のもと、鎌倉市教養センターで、鎌倉ガイド協会11期生ガイド養成講座の開講式が開催され、40名の受講生が出席されました。
初めにNPO法人鎌倉ガイド協会会長関有恒の挨拶、続いて鎌倉市教育委員会や鎌倉市観光協会などのご来賓のご挨拶があり、ガイダンスの後、午後からの座学研修を受講生の皆さんは緊張の面持ちで受けられました。
早速9日(火)から午前六国見山、午後天園コースの実地研修が開始され、12月まで合計36回の研修を受講される予定です。
令和2年1月には、晴れて鎌倉市の街づくりに貢献できる専門ガイドの誕生が期待できるでしょう。


2019.04.03

5月特別企画Cコース(浄楽寺運慶仏と葉山御用邸)の実施日令和元年5月31日(金)は、定員に達しましたので、申込を締め切りました。ありがとうございました。
なお、実施日令和元年5月28日(火)/6月1日(土)は、引き続き申込を受け付けております。


2019.04.01


新元号「令和」が発表されて、とうとう平成31年最後の月、4月、卯月に入りました。
旧暦では、「卯の花(ウツギ)」が咲く頃で「卯の花月」を略したと云われます。卯月の「う」は「初(うい)」「産(うぶ)」を意味するもので、農耕の1年の初めの月を意味したとも云われます。夏の季語ホトトギスは「卯月鳥」とも呼ばれるようです。

今月の史跡めぐりAコースは、鎌倉の知られざる2つの切通を歩いて新緑の六国見山へ。建長寺の根本寺ともいわれる名刹・常楽寺や小田原北条氏の家臣・甘糟氏ゆかりの多聞院を訪れます。
Bコースは、心華やぐこの季節に「頼朝」ゆかりの寺社巡り。滑川の支流「逆川」沿いの路地を歩いて大町や材木座の寺社に参拝します。

今年は、花冷えの日が多く、鎌倉の桜はこれからが見頃、ソメイヨシノの次には八重桜もお楽しみいただけます。
ガイド協会の史跡めぐりで、どうぞ楽しい一日をお過ごし下さい。

〈画像は、六国見山富士塚付近で、鎌倉三大桜の一つ「夫婦桜」です〉


2019.03.14

2月9日定期研修会「私がガイドになった頃・源頼朝の軍勢はいかに隅田川を渡り鎌倉に入ったのか・隠れイチョウ」(講師:上田博正さん)が開催されました。

テーマ1 「私がガイドになった頃」

(1)平成11年(1999年)4月に当時の鎌倉シルバーボランティアガイド協会に入会しました。当時の様子を誰かが書き残しておくべきかと考え、今回の発表となりました。
入会したのは男子25名女子3名で協会の会員数は86名になりました。私たちの入会の年に班替えが行われました。その頃の事務所は教養センターの1階から地階に下がる階段の下にあり、電話は、教養センターの番号で、親機は1階の教養センターの事務所にあり、ガイド協会には子機があり、転送されていました。この子機は、親機との間が長すぎるせいか、相手の声が聴きにくいもので、たびたび、階段を上がって親機に近づけて相手の話を聴いていました。こちらからかける電話は、1階のコーナーに置いてあった公衆電話からかけていました。ファックスはありませんし、パソコンもありませんでした。
日直は、役員が1名と協会員が1名で、月曜から金曜まで事務所に詰めていました。役員の方は11時から出勤し、正午から会員が持参するガイド実施後の代金を受け取り、入金処理を行っていました。現在のような郵便局への振り込みは平成14年に現在の由比ケ浜の事務所に移転した時に導入されました。

(2)史跡巡りは、平成11年まで毎月A,Bコース各日行われ翌年に各3日に増加、平成5年に各4日と今と同じ回数になりました。各班が企画するCコースは平成16年に新設されました。私自身のガイド回数は、平成11年10月から8回、12年14回、13年11回14年17回でした。
チラシや参加者に配布するレジメの大きさはB5版の紙にワープロで作成されたもので、最初の頃はレジメに写真は入っていませんでした。
研修期間の資料は、半分以上がガリ版刷りのものでした。
参加費は、500円に改定されました。拝観料は各寺社での個人払いで、今のようにあらかじめいただく方式ではなく、寺社への拝観料は参加者が直接納めていました。
チラシは、平成15年にB5からA4に変更され平成17年にはパソコンが導入されて作成されるようになり、印刷機も備え付けられました。
レジメに平成17年あたりから「鎌倉市後援」の文字が使われ始めています。この頃はまだシルバーボランティアガイド協会でした。
この3年後にボランティアガイド協会は解散し、特定非営利活動法人鎌倉ガイド協会になりました。

(3)入会したころの話とは異なりますが、平成20年12月にNPO法人となりその準備段階で、会計を担当しました。県内で先にNPO化したガイド協会を訪問し会計制度などを聞きましたが、小田原ガイド協会の会長から条件が整えば収益が上がっても法人税は免除されることを聞き、鎌倉税務署で確かめたら次の項目が確認され、NPO鎌倉センターに法人化の指導を受けていたので、そのことを伝えたところ、鎌倉センターはHPにそのことを掲載しました。今もHPに掲載されています。
その内容は「NPO法人の収益事業課税」
法人税法施行令五条2項一号には、公益法人等が行う収益事業のうち、年齢65歳以上の者が、その事業に従事する者の総数の半数以上を占め、かつ、その事業がこれらの者の生活の保護に寄与している場合には、その事業は収益事業には含まれないとされています。
これにより、当協会もNPO法人化以後、会員の平均年齢が65歳以上なので「所得税」は納付していません。以前のボランティアガイド協会の時代には、ほぼ毎年、所得税を納めていました。

テーマ2 「源頼朝の軍勢はいかに隅田川を渡り鎌倉に入ったのか」

治承4年8月28日、頼朝一行は真鶴岬から小舟に乗り安房国へ到着。そこから、千葉介常胤、上総介広常などの支援を受けて、鎌倉に向かいます。房総から鎌倉に行くには、途中、武蔵国には太日川、隅田川があり、橋は架かっていませんでした。大勢の軍勢はどのようにしてこれらの川を渡ったのかを当時の様子を記した、吾妻鑑、義経記、平家物語、源平盛衰記を調べた結果をまとめました。
(1)吾妻鏡
常胤、広常等と舟に同乗し太井川、隅田川を渡った。その時の軍勢は2万7千騎であった。
(2)義経記
隅田川に着いた時、川は大洪水で8万9千騎とも言われた軍勢は5日間も足止めを食った。
吾妻鏡にも出てきますが、義経記では、川に物見櫓を組んで源氏を迎え撃つ構えの者がいた。江戸太郎がその者で、衣笠合戦の時、敵方であった者で頼朝は許せない、討ち取れと命じたが、江戸太郎は陳弁にこれつとめ、千葉介常胤が頼朝にとりなしをし、江戸太郎は困惑し不憫ですと申し上げたところ、頼朝は江戸太郎は関東八か国きっての富豪と聞く、川の渡しに船を浮かべて浮橋を架け、王子、板橋へ渡せと命じた。
江戸太郎は浅草石浜に寄港していた西国の船数千艘をつなげて浮橋を組み、頼朝渡河を手伝った。
(3)平家物語
隅田川の現在の台東区橋場と墨田区向島との間に舟橋を架けたと記述。
(4)源平盛衰記
橋場の浮橋は頼朝が付近の家屋を壊して臨時に架橋したと記している。
(5)浮橋
奈良時代、律令国家時代にすでに主要街道に駅伝制度が整備されていて主要な橋・舟橋の架設が行われていました。承和二年(835)6月の太政官は、富士川と相模川に舟橋を架けることおよび渡船の設置を命じています。
頼朝は、文治四年正月に伊豆・箱根・三嶋神社に参詣していますが、この時三浦義澄に命じた相模川に浮橋を架けさせたと吾妻鑑は伝えています。
このように古来から、大きな川を渡る方法として浮橋が架けられたのは、板橋を架ける技術がなかったこと、橋を架けても水量が増加すると水圧で流されてしまい、費用対効果が悪かった。
江戸時代に入っても、将軍の上洛は、日光東照宮への参詣などの際にもしばしば、臨時に浮橋を架けさせています。浮橋の架け方としては、多い時には、50~60艘の船を鎖でつなぎ、多数の船の上に板を並べたものが一般的でした。
(6)結論
したがって、頼朝に従う大勢の軍勢を渡す手段としては浮橋を架けさせて渡ったものと推定します。古来から、浮橋は使われていますし、相当な人数と馬も渡すことを考えると「浮橋」説が正しいのではと私は考えています。
江戸太郎が西国から着いた船を使って浮橋を架けたと言われていますが、平安時代から房総、武蔵国にあった、伊勢神宮御厨から伊勢に米などが輸送されており、当時の浅草の港は房総方面との海上交通の要衝であり、伊勢に向かっては品川から廻船が相当数出ていたことが近来判明しており、後に徳川家康が江戸に本拠地を置いたのにも鎌倉時代から海上交通が発達していたことが理由といわれています。

テーマ3 「隠れイチョウ」

承久元年1219年正月、将軍実朝が鶴岡八幡宮で殺害された。先輩から教えられたのは「当日、実朝が拝賀の儀式が終わり帰ろうとした時、石段下にあった樹齢千年のイチョウの樹の陰から突然現れた男により殺害された。犯人は甥の公暁であった」と。
(1)吾妻鏡
ガイドを始めて数年たったころ、この事件のことを吾妻鏡が伝えていると聞き調べてみた。
事件の予兆があり、実朝は結髪に来ていた宮内公氏に、自らの鬢の毛を一筋抜き、形見と言って与えたとか、「出でていなば、主なき宿と成りぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな」と死を覚悟したような禁忌の和歌を詠んだ。
当日の様子については、「夜になって神拝の儀式が終わり、退出したところ、八幡宮の別当、阿闍梨公暁が石段の近くに隙を見て近寄り、剣をとって丞相を殺害した」
(2) 愚管抄
天台宗の僧侶、慈円が書いた愚管抄は、拝賀の儀式に京都から5人の公卿が来ていて凶行現場にいた。その公卿たちからの情報によって当日の様子を伝えている。
「社殿前の石段を下り公卿が立ち並ぶ前を束帯の下に着用する下重ねの裾を長く引きながら歩いていた。そのとき、法師の格好で頭に山伏の兜巾(ときん)をかぶった男が走りかかり、下がさねの尻の部分を踏みつけ、一太刀で実朝の首を切り落とした。」
(3)結論
このように吾妻鏡も愚管抄も「イチョウの樹の陰から・・・」とは伝えていない。では、一体誰が,何時、イチョウの樹の陰からと伝えたのか、協会の同じ班の斎藤氏の調査で「名所記鎌倉物語」 中川喜雲(1636~1705?)が萬治2年(1659)に発行したものに書かれていたことが判明した。
その後、明治、大正時代になると、吾妻鏡にも「イチョウの樹の陰」説が書かれているなどとの記述も現れている。
実朝が殺害された日に詠んだ和歌、禁忌の和歌もその後の調査では、実朝以外の人が詠んだとの説も出ており、「政治に背を向け、公家文化に耽溺して和歌や蹴鞠に没頭した軟弱な将軍」とは異なる実朝であったのではと、坂井孝一氏は『源実朝「東国の王権」を夢見た将軍』の本のなかで書いておられます。
…………………………………………………………………………………………………………………
第1部では「私がガイドになった頃」ということで、平成11年頃の初期のガイド協会のことが語られました。チラシがB5からA4に変わり、NPO法人化に伴い所得税が免除になったお話など、先人のご苦労があったからこそ今の鎌倉ガイド協会があることをあらためて痛感したしだいです。
第2部では源頼朝が千葉から鎌倉に入るまでの様子を丁寧にお話され、なかでも大きな川をどうやって大軍が渡ったのか、「浮橋」とはどんなものか想像しますと壮大な絵が頭に浮かんできて、一層興味をそそられました。
第3部では「隠れイチョウについて」であり、源実朝の暗殺の実態、隠れイチョウの存在、実朝の人物像、そして実朝のあの有名な和歌は本当に実朝自身が作ったことなど、その真偽のほどは諸説あるということで歴史の奥深さに感銘するうちに研修会は終了となりました。
上田様 貴重なお話、本当にありがとうございました。(新井洋子速記)


2019.03.10

弥生とは3月の異称。春たけなわ、様々な草木が芽吹いて花が咲く頃、草木が「いよいよ生い茂る」という意味の弥生(いやおい)から変化した、などといわれます。
梅春から桜春へ。
3月史跡めぐりCコースは、既に終了していますが、A、Bコースはこれからです。
春うららな鎌倉で、桜を愛でながらの史跡めぐり、どうぞ奮ってご参加下さい。

画像は、材木座光明寺裏山の展望です。(神奈川の景勝50選)今月Bコースで訪れます。
光明寺山門楼上から見下ろす境内の桜は、見応え十分。お楽しみに!


2019.02.22

ガイド養成講座の受講者募集は2月3日消印をもって締め切りました。ありがとうございました。


2019.02.06


1月12日定期研修会が開催されました。テーマは『新田義貞・鎌倉攻めの道歩記(みちあるき)』、講師は鎌倉ガイド協会会員の高橋聰さんです。(以下の記事はその要旨を編集したものです。)
はじめに
  景勝の地「稲村ケ崎」は、新田義貞の伝説(1333年)で知られる場所です。自分にとっては毎日のように訪れる休息の場所でもあります。今回、新田義貞が稲村ケ崎に到達するまでの道を訪ね歩くことを思いたち、実施した結果をまとめたものです。
Ⅰ.新田義貞軍の進路推定調査(文献等による合戦の記録、古道の地図史料等から進路を推定)
(1)新田義貞の挙兵
 ・楠木が河内に挙兵(1332)。義貞は、幕府の追討命令に従い、正成の立てこもる河内に進撃。
  その間、討幕の綸旨(天皇などの命令)を密かに取得し、仮病を使って帰国(新田荘へ)。
 ・幕府は、正成追討の軍費調達のため、諸国に富裕税の徴収を命じた。義貞は、やってきた徴税使を襲撃した。
  この事件が挙兵の直接の契機となる。
・元弘3年(1333)5月8日(午前6時前後)、義貞を中心とする新田一族(合計150騎)、生品明神(太田市新田町)に参集。(鎌倉まで徒歩約200㎞、直線距離にして約110㎞)
(2) 二つの鎌倉攻め進路説
 ①北上進路説
  「生品明神の御前にて旗を挙げ、綸旨を開いて3度これを拝し、笠懸野へ打出られ」(太平記)
 ②世良田南下進路説
  「上野国より新田義貞、君の御方として当国世良田に打出て陣をとる」(梅松論)
  (注)足利軍の蜂起:足利尊氏の嫡子(4歳、後の足利幕府第2代将軍)
     5月2日夜半に鎌倉の屋敷を脱出、その後の行き先不明。①9日、新田軍が武蔵国へ入った時、
     千寿王を擁する足利勢200余騎合流説と②12日、世良田で反幕府の蜂起があり、その中心に
     千寿王とする資料(鹿島利氏申状案)があるという。
(3) 新田義貞軍と足利千寿王軍の連携による2段階蜂起説
 ・5月8日の生品神社における新田軍の蜂起と別に足利千寿王軍の世良田蜂起。千寿王軍は世良田の南で利根川を  渡河、武蔵国で新田軍と合流したとする説。
 ・新田軍が先行した後、世良田へ集合する武士たちの軍団への配属や、進路誘導等のフォロー。
(4)現地踏査の進路:鎌倉との往復により進路を歩く(5月8日~12月28日の間、延18日間)
 ・笠懸野北上進路「生品神社〜笠懸野〜利根川(前橋市)〜八幡荘(高崎市南部)⇒武蔵国」。
 ・中央部に進出し、北条氏に圧力をかけ、多くの軍勢を結集してから武蔵国に進出。 
Ⅱ.現地踏査(文献等による合戦の記録(元弘3年5月8日~5月21日)に合わせて編集)
  数字番号(①~㉝)は、現地調査の際の沿道の史跡や見聞要旨を示す。
5月8日(1日目):生品神社~(笠懸野・中世東山道)~利根川(前橋市)~八幡荘(高崎市)で総結集(高崎市南部・新田荘とともに新田氏の根拠地)。(鎌倉まで約150㎞)
  ①笠懸野の由来:源頼朝が狩りをした際、風に飛ばされて地面に転がった従者の笠を見て「射よ」と命じたのが笠懸の始まりとの伝承があり、地名の由来になっている。
  ②国定忠治の墓:墓碑そばの「長岡家のつたえ」によると、「名主の嫡男として生まれたが、跡目を継がず任侠心と生来の気概により世を助け一途を全うした」とある。
  ③義経の腰掛石:源義経が奥州へ向かう途中この石に腰かけて休んだと伝えられる。
  ④上野国府跡(推定):国庁があった場所と伝えられる宮鍋神社。南側を東山道が通っていた。
  ⑤八幡宮:石清水八幡宮を勧請。源頼義(戦勝祈願)、義家(社殿修築)。源氏一門の崇敬。
  ⑥「鉢木」伝説地:上信電鉄「佐野の渡し駅」ホームに掲示。北条時頼廻国伝説。
  ⑦定家神社:藤原定家を祭神。定家大明神縁起(定家の子孫がした)。定家の筆(伝)。社宝。
  ⑧八幡宮:宇佐八幡宮を勧請。新田義重の子、山名義範が社殿造営。武神として崇敬。
5月9日(2日目):八幡荘(高崎市)~将軍沢郷(嵐山町)
・将軍沢郷は、世良田氏の所領として知られている所。将軍沢郷で宿営か。
  ⑨館跡:畠山重忠居住という中世の遺跡。1205年二俣川の合戦の際この館から出発。
  ⑩館跡:源館跡。源義朝長子の義平に討たれる。義賢の次子駒王丸は後の木曽義仲。
⑪源義賢公墓:源為義の次男、源義朝の異母弟。1155年没。墓と伝えられる五輪塔。
5月10日(3日目):将軍沢郷〜笛吹峠〜入間川(鎌倉まで徒歩約80㎞)
・鎌倉幕府は、前日評定の結果、軍勢を入間川及び新田軍の背後に回らせたが間に合わず。
⑫笛吹峠:1352年、義貞三男義宗軍が尊氏軍に敗れた地。宗良親王が笛を吹かれたという。
⑬遺構:埼玉県内でも鎌倉街道跡として最も良い状態で残されているという。
⑭清水八幡:源義高を祀る。父義仲が頼朝に討たれ鎌倉を脱出、河原で追っ手に討たれる。
5月11日(4日目・の戦い):入間川~小手指原(所沢市)〜入間川
⑮熊野神社:義貞、当社で戦勝祈願。鎌倉幕府を滅ぼし,感謝のしるしに当社修造という(由緒)。 
⑯小手指原古戦場跡:両軍、戦うも勝敗つかず、新田軍は入間川、幕府軍は久米川に退く。
⑰白旗塚:義貞がここで陣を張り、源氏の旗印とされる白旗を立てたという伝承。
5月12日(5日目・久米川の戦い):入間川~久米川
 ⑱将陣馬橋:新田軍が軍勢の勢揃いをさせたところと伝える。
⑲将軍塚:久米川の合戦で勝利した義貞が、この地(八国山)に一時逗留し塚に旗を立てたという。
⑳久米川古戦場跡:新田軍、幕府軍久米川の陣へ突撃して幕府軍を破る。幕府軍分倍河原へ退く。
㉑徳蔵寺:義貞鎌倉攻めの時、戦死者を供養した「元弘の板碑」がある。合戦の日付等判明。
㉒正福寺千体地蔵堂:1407年建立。円覚寺舎利殿と共に建築を代表。国宝建造物。
5月13日、14日(6日・7日目):久米川(鎌倉まで徒歩約65㎞)
・新田軍は13・14の両日久米川に布陣して休息し、次の戦闘に備えたという。
5月15日(8日目・合戦):久米川~分倍河原(府中市)~関戸〜堀兼 
 ・未明から多摩川を挟んで、分倍河原・関戸で合戦が行われた。
  ㉓迷いの桜:義貞、「九道の辻」(小平市)で鎌倉への道に迷い、一本の桜を植えて道しるべにしたという。
  ㉔分倍河原古戦場:幕府は新手の北条泰家軍10万を投入。新田軍敗れて堀兼まで退く。
・退却した義貞の陣に、夕方、相模国の軍勢6千騎を率いた三浦大多和義勝が加わった。
5月16日(9日目・分倍河原・関戸合戦):堀兼~分倍河原~関戸(鎌倉まで徒歩約50㎞)
・新田軍は、未明、再び分倍河原に攻めよせ、幕府軍に大損害を与えて退却させた。
㉕天主台:敗れた北条泰家が、安保道堪(討死)らの奮戦で難を逃れ、鎌倉へ逃げ帰る。
㉖熊野神社:鎌倉時代関所(霞ケ関と呼ばれる)の南木戸があった所という。
・数10万の兵士に荒らされた田畑の惨状、通過した軍勢のための食糧徴発等当時の住民にとって、合戦とは何かを示す資料もあり。
5月17日(10日目):関戸
 ・分陪河原合戦で北条軍を破った新田軍は、関戸(東京都多摩市)に一日逗留したという。
5月18日(11日目):関戸〜小野路〜町田〜瀬谷~柄沢~村岡~洲崎〜(稲村ケ崎)
 ・義貞は軍を三手に分け、朝早くから鎌倉攻撃を開始した。鎌倉を取巻く村岡、藤沢、片瀬、腰越、十間坂など五十余か所に火をかけた。
  ㉗古道(伝・新田軍通過):S字を描くようにカーブする掘割状の道。地元に伝わる。
  ㉘鎌倉古道遺構:「鎌倉街道・上道」と推定される掘割状の道路遺構。
  ㉙鎌倉井戸(七国山):義貞が馬に水を飲ませるために掘ったという伝説の井戸跡。
  ㉚鞍掛の松:義貞がここで休憩し、馬の鞍を掛けたという伝説がある(正確な位置は不明)。
  ㉛洲崎古戦場跡:戦はまず洲崎で起こり、赤橋守時の兵が敗れて守時は自殺。
 泣塔:基壇部に「文和五年二月二十日」(1356)の銘がある。合戦の供養塔か。
5月19日、20日、21日(12日・13日・14日目):稲村ケ崎(他地区の状況省略)
  ・極楽寺坂、霊山(りょうせん)で合戦があった。21日、新田軍は、稲村ケ崎から鎌倉に乱入。この日稲村ケ崎が干潟になる(「梅松論」、「太平記」)。
  ㉜十一人塚:大館宗氏と共に戦って戦死した主従11人を供養したという。
㉝稲村ケ崎:天然の要害ともいわれた鎌倉を攻めあぐねた義貞が,岬から海に太刀を投げ入れて海神に祈ると潮が引き干潟となり、そこから軍勢を率いて攻め込んだという。
道歩き終了(歩行距離約200㎞)
 ・ 笛吹峠、多摩丘陵、鎌倉周辺の丘陵等の上り下り、利根川、荒川、入間川、多摩川等の広い河川敷や河岸段丘等あるものの、全体的には平坦な道が多い。また、改変・消滅した道も多く、スマホによる位置確認等、文明の利器がなければ難しい道歩きでもあった。
 ・ 新田軍の進路は、台地上や川沿いの低地等並行して複数推定されたが、義貞自身の進路は戦略上、地形的に高い位置を確保し見通しの良いルートを選択したように思われる。
・ 稲村ケ崎「徒渉伝説」を考えてみると、確かに潮が引き干潟になったかもしれないが、岬の頂を確保することによって干潟からも軍勢が攻め込めたともいえる。諸説続く間は、人を引き付ける場所であるかもしれない。(了)
 (参考資料)太平記、梅松論、各県・市・町史、新田義貞・新田足利を歩く(峰岸純夫氏)、
       旧鎌倉街道探索の旅(芳賀善次郎氏)、明治迅速地図、各市・町白図
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今回の講義で、新田義貞と足利千寿王(後の義詮)の鎌倉攻めの軍勢が、二つのルートを通って後に合流し、幾つもの合戦を経て鎌倉に到達したことが良くわかり、大変勉強になりました。また、道沿いの多くの名所・旧跡を丁寧に紹介され、まるで、自分も一緒に歩いているような気持にさせていただきました。
日本ハムの「ハンカチ王子」こと斉藤祐樹さんが、太田市立生品小学校出身であることも初めて知りましたし、ところどころユーモアをまじえてのお話、とても楽しく拝聴させていただきました。本当に有難うございました。(新井洋子速記)


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