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2018.01.07


新年明けましておめでとうございます。
かながわボランティアガイド協議会共催のこのツアーですが、平成30年2月21日の神奈川歴史散歩・新発見の旅「鎌倉・江ノ島 源頼朝ゆかりの古社巡り」は当ガイド協会の参画になります。
奮ってのご参加、どうぞ宜しくお願いいたします。


2017.12.25


鎌倉市教養センター主催の文化祭が、平成29年10月22日(日)に行われました。文化祭の公開講座において、『「鎌倉と夏目漱石―参禅百年記念碑をめぐる人々―」と題して』鎌倉ガイド協会会員関谷哲雄さんが講演をいたしました。(以下は要旨です。)
はじめに
北鎌倉の東慶寺山門前に「夏目漱石参禅百年記念碑」がある。漱石は明治37年の年末から38年初めにかけて、円覚寺の帰源院に止宿し釈宗演のもとに参禅した。それから十数年後、大正元年9月、漱石は親友中村是公とともに、東慶寺に移っていた宗演老師を訪ねた。この日の訪問を仲介したのは、漱石が信頼し兄事した菅虎雄である。
漱石は、この日の出来事を「初秋の一日」として書き残し、その一節は「夏目漱石参禅百年記念碑」に刻まれた。
1、 中村是公との出会い
明治17年、夏目金之助(当時は塩原金之助)18歳(数え年)で大学予備門(後の第一高等学校)に入学し、生涯の親友となる中村是公(当時は柴野是公)と出会う。 
二人は末富屋という下宿屋にいて十人程が一緒でした。そして、彼らは勉強を軽蔑するのが天職であるが如くに心得ていた。明治18年夏、末富屋の仲間7人と会費10銭の江の島徒歩遠足を行った。三食分の握り飯を持ち未明に末富屋を出発、片瀬の海岸で野宿をした。翌朝、江の島へ渡ろうとするが海が広がり、渡る道が分らない。渡し人足がいるが銭がなく、1人だけ人足に背負ってもらい、他の者はその後を歩くこととした。すると金之助が真っ先に「俺が負ぶさる」と言って背負われた。そこらへんは素早い男だったと同行した太田達人は書き残している。
端艇競漕(ボートレース)などは好んで行った。当時のボートはハイカラなスポーツだった。金之助たちは黒い帽子をかぶり、友人たちと「ブラック・クラブ」というグループを作ってボートを漕いでは、むやみに牛肉を喰っていた。そして、メンバーの成績は級の尻の方に塊まっていった。
明治19年 金之助は、予科二級を落第した。腹膜炎で試験を受けられなかったためである。是公は、点数が足りなく落第した。追試を認められなかった金之助は、日頃の行いに問題があったと反省し、是公と二人で下宿をでた。そして、宿舎付き私塾教師として月給5円二畳敷きでの共同生活をはじめた。金之助は英語で地理書と幾何学を教え、そこから予備門に通った。成績は以後首席を通したという。しかし、是公との共同生活は金之助が眼病を病み1年ほどで終わった。
明治20年、この年、長兄大助、次兄直則があいついで死亡した。金之助に冷たかった父直克も夏目家の将来を心配しだし、明治21年1月、金之助は「塩原」から「夏目」に復籍した。夏目金之助は、この年、本科一部(文科)に進み英文学を学ぶことにした。
明治22年4月、中村是公は、帝大の招待ボートレースで優勝した。その時、学校から若干の金をもらった中村は、貴様の好なものを買ってやると金之助に云った。金之助は沙翁のハムレットを買ってもらった。その時初めてハムレットを読んだがさっぱり分からなかったと後に書いている。
5月 金之助は、正岡子規の漢詩文集「七草集」の書評に初めて「漱石」の名を使う。この夏、夏目漱石は房州旅行をして漢詩紀行文「木屑録(ぼくせきろく)」を書き、子規の称賛をうけた。
2、菅虎雄との出会い
漱石は、明治23年9月 帝国大学文科大学英文科の唯一の学生として入学した。菅虎雄は、文科大学独逸文学科の3年生であった。当時、文科大学は、3学年を合わせても30名程度であった。この時、文科大学の学生を会員とする親睦会・勉強会として紀元会が結成され、漱石は、子規らと入会した。狩野亨吉が会長、菅虎雄は副会長であった。漱石と虎雄はこのような勉強会や懇親会を通して親しくなったと思われる。漱石は虎雄を信頼し兄事した。そして、大学を出た後も、就職、家探し、その他もろもろ、世話を受けることになる。
明治26年、漱石は大学院に進学した。大学では特待生にもなり英語の使い手としての名声は高かった。そして、東京高等師範学校嘱託、東京専門学校講師となった。しかし、心の中では葛藤が渦巻いていた。
明治27年7月、正岡子規に「理性と感情の戦争益劇しく、恰も虚空につるし上げられたる人間の如くにて、・・・・」という手紙を書いている。漱石は後に「大学で英文学という専門をやりました。三年勉強して、ついに文学は解らずじまいだったのです」。そして、教師になったが、「自分の職業としている教師というものに少しも興味を持ちえないのです」と不安と葛藤を述べている。あるいは許されざる恋愛に悩んでいたとの説もある。
漱石は、7月、伊香保温泉、8月、松島、湘南の海岸と漂泊の末、大学の寄宿舎を出て菅虎雄宅に寄宿した。そして、10月、虎雄を驚かせるようなことがあり漢詩の書置きを残して突然飛び出した。その後、虎雄の紹介で法蔵院(小石川)に居住した。
3、釈宗演に参禅
漱石は、虎雄の紹介で、明治27年の12月23日から翌年1月7日まで円覚寺帰源院に止宿して釈宗演老師に参禅した。虎雄は宗演の師、今北洪川に参禅し「無為」の居士号を頂いていた。夏目漱石28歳、釈宗演36歳で円覚寺管長であった。
老師は、安政6年(1859)12月 若狭高浜の一瀬家に生まれ、12歳のとき妙心寺天授院で得度。明治11年(20歳)円覚寺の今北洪川に参禅し、25歳のとき印可を得る。その後、円覚寺塔頭仏日庵に住した。そして、師の反対を押し切って、慶応義塾で洋学を学ぶ。明治25年(34歳)円覚寺管長。明治26年、シカゴで開催された万国宗教大会に出席、『仏教伝通概論』を発表した。これは禅の西欧へ布教の嚆矢であった。漱石が参禅したのは、その翌年のことである。 
漱石の参禅の様子は、小説「門」の主人公 野中宗助の参禅によく描かれている。主人公宗助は、親友であった安井を裏切って、その妻である御米と結婚したが、その罪悪感から二人は東京でひっそりと暮らしていた。しかし、ある時、安井の消息を聞いて心の安定を乱し、救いを求めて、知人の紹介で鎌倉に参禅する。
「山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空を遮っているために、路が急に暗くなった。その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急に覚った。」宗助は、一窓庵(帰源院)で若い僧宜道(釈宗活)の世話になる。そして、老師(釈宗演)に相見し公案を頂く。その時の老師の印象を「宗助が始めてその視線に接した時は、暗中に卒然として白刃を見る思があった。」と書いている。「まあ何から入っても同じであるが」と老師は宗助に向って云った。「父母未生以前本来の面目は何だか、それを一つ考えてみたら善かろう。」 宗助は、座禅をし、公案を考えた。そして、再び宜道につれられ老師のもとに向かった。「この(老師)面前に気力なく坐った宗助の、口にした言葉はただ一句で尽きた。『もっと、ぎろりとした所を持って来なければ駄目だ』と忽ち云われた。『その位な事は少し学問をしたものなら誰でも云える』宗助は喪家の犬の如く室中を退いた。後に鈴を振る音が烈しく響いた。」
 宗助は、悟を開くことなく下山することになった。「『少しでも手掛りが出来てからだと、帰ったあとも楽だけれども。惜い事で』宗助は老師のこの挨拶に対して、丁寧に礼を述べて、又十日前に潜った山門を出た。甍を圧する杉の色が、冬を封じて黒く彼の後に聳(そび)えた。」 
4、松山と熊本
明治28年、漱石(29歳)は菅虎雄の紹介で、松山へ。後に小説「坊ちゃん」を生むことになる。松山では、中学の英語教師をしながら、俳句に精進し数々の佳作を残している。しかし、漱石はすぐに松山を出たいと虎雄に訴え始めた。虎雄は、この年10月より第五高等学校(五高)の教授となっていた。たまたま五高に英語教員の空ができ、漱石を熊本に呼んだ。
明治29年4月、漱石は五高の講師として熊本へ赴任した。五高で詠んだ漱石の句が残っている。「いかめしき門を這入れば蕎麦の花」当時、五高は開校したばかりであった。6月に中根鏡子と結婚する。漱石は、鏡子との新居に移るが、それまでは菅虎雄の家に寄宿していた。7月には教授に就任した。こうして、週20時間以上の英語の授業をし、俳句にも励む4年3カ月におよぶ熊本の生活が始まった。俳句は生涯詠んだ約2400句の約4割は熊本で詠まれた。
明治30年 虎雄は、肺結核をやみ1,2月の相当日数を欠勤した。漱石は、春休みに久留米に帰郷し静養していた虎雄を訪ねた。そして、その足で高来山に登る。「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」という小説「草枕」の冒頭にある山路はこの時の山行と云われる。
虎雄は、一旦は回復したが再発し、8月には五高を非職となり、茅ヶ崎の療養所に入った。
6月、父直克が死去。漱石は、期末試験を済ませると早々に鏡子と上京した。鏡子は長旅のせいで流産してしまい鎌倉の材木座で静養することになった。鏡子の実家中根家は、親戚にあたる大木伯爵の材木座の別荘を借りて夏を過ごしていた。漱石は、大木別荘の近くの河内屋別荘の一室を借りて東京と鎌倉を行き来した。河内屋は材木座3丁目あたりで現在も外観は当時のままにある。
9月初旬 漱石は熊本に帰る前、帰源院に釈宗活を訪ねた。その時詠まれた句「仏性は白き桔梗にこそあらめ」は、後に帰源院境内の石碑に刻まれた。
明治33年9月、漱石は英国留学へ旅立った。そして「もっとも不愉快の二年」を過ごし、明治36年1月英国留学から帰国するが、熊本に戻りたくなかった漱石は、狩野亨吉(当時、一高校長)らの力添えで帝大講師、一高嘱託となり東京に居を構えることになった。
菅虎雄は、この時には病気が癒え一高教授となっていて、漱石の東京での家探しや家財道具の調達に奔走している。この時、借りた家で「吾輩は猫である」など初期の作品が書かれた。
明治40年2月、漱石は一切の教職を辞し、4月、朝日新聞社に入社して本格的に職業作家としての道を歩み始めた。
5.漱石、是公再会
明治42年 作家夏目漱石は、南満州鉄道(満鉄)総裁となった中村是公と再会する。
中村是公は、帝大法科を卒業後、大蔵官僚となり明治29年には台湾総督府の民生局事務官として台湾に赴任し、以後外地に勤務した。明治41年12月に満鉄総裁となり、明治42年の正月は日本で過ごした。是公は大連に戻る直前、漱石に連絡を取ったが、この時は都合がつかず会えなかった。漱石は、当時朝日新聞に掲載中の「永日小品」に「昔の中村は満鉄の総裁になった。昔の自分は小説家になった。満鉄の総裁とはどんな事をするものかまるで知らない。中村も自分の小説をいまだかって一頁も読んだ事はなかろう」と書いた。
是公が漱石を訪ね再会したのはこの年の7月であった。そして、9月から10月にかけて、漱石は、満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行した。この旅行の記録は朝日新聞に「満韓ところどころ」として連載された。
漱石が日本に帰って10日後、ハルピンで伊藤博文の暗殺事件が起こった。是公は、伊藤公に同行していて事件に遭遇した。是公に怪我はなかったが外套に貫通弾痕があったという。
漱石は満洲に旅行した頃からしばしば胃の不調を訴えていたが、明治43年に入ると、いよいよ悪く、小説「門」を書きあげた後、夏、修善寺で大吐血し、生死をさまよった。状態が落ち着いてから東京にもどったが、病院で年を越すことになった。
明治44年夏、是公と鎌倉・小坪に遊んだ。是公は鎌倉の長谷に別荘を構えていた。長谷の光則寺門前あたりである。漱石は、是公の別荘に泊まり、翌日小坪に蛸突きにでかけた。小坪での経験は、翌年1月から4月にかけて朝日新聞に掲載された「彼岸過ぎまで」に残されている。
6、大正元年
明治45年 明治天皇は7月30日に崩御され、年号は大正に変わった。この年、漱石はたびたび鎌倉を訪ねた。夏目家は子供たちを鎌倉で過ごさせることにし、夏の間の別荘を、前年に鎌倉の由比ガ浜に移住していた菅虎雄に相談した。そして、大木別荘のすぐ近くにある田山別荘を借りることにした。この家と大木別荘の様子は小説「行人」に描写されている。
この夏、漱石は是公と信州野州への温泉旅行に出かけている。旅先で是公から「学徳の高い漢学者で満洲へ来て修養上の講話をして呉れるものはないか」との相談があり、漱石は漢学者ではないがと云って釈宗演の名を挙げた。そして、菅虎雄に宗演老師への仲介を依頼した。
大正元年 9月11日、漱石は中村是公と満鉄理事犬塚信太郎を伴って北鎌倉の東慶寺に宗演老師を訪ねた。漱石には明治28年以来の2度目の訪問であった。東慶寺に着くと「Z(是公)は石段を上る前に、門前の稲田の縁に立って小便をした。自分(漱石)も用心のため、すぐ彼の傍へ行って顰に倣った。」漱石は、是公ら二人を老師に引き合わせ、巡錫の打ち合せをしたあと、縁切寺のこと、開基のこと等の雑談をして帰った。漱石は長谷の是公の別荘に泊まり翌早朝東京に戻った。
7、二人の雲水
 大正3年頃、神戸市にある祥福寺に修行僧の富沢珪堂(23歳)と鬼村元成(20歳)がいた。ある時二人は「吾輩は猫である」を面白く読んだ。鬼村が漱石に手紙を書き文通が始まった。翌年には、珪堂も、漱石と文通するようになった。そして、大正4年7月、二人は漱石から「若しあなた方が東京へ来たら、私の宅へとめて上げませう。」という手紙をもらう。
二人の若い雲水は、大正5年10月名古屋の大集会に参加し、東京まで足を延ばして漱石宅に滞在した。漱石は、当時「明暗」を執筆中で二人を漱石自身が案内することはなかったが、「今日はどこへ行くとよい」とか相談にのり、毎日十円を与えて送り出した。そして、二人の雲水の話を聞くのを楽しみにしたという。二人は、帝劇での観劇や、新聞社見学、日光見物をし、漱石の文学サロン木曜会にも参加して、都合一週間ほど滞在して、十月末帰った。
二人は神戸に帰ると早速礼状をだした。漱石は、珪堂に11月15日付書簡で「私は五十になって始めて道に志ざす事に気のついた愚物です。・・・私は貴方方の奇特な心得を深く礼拝してゐます。あなた方は私の宅に来る若い連中よりも遥かに尊とい人達です。」と書いている。漱石は、その一週間後、胃潰瘍が再発、それが悪化して、翌月の12月9日不帰の人となった。
葬儀は、12日、青山斎場で釈宗演を導師に行われた。是公は釈宗演に導師依頼の使いとなった。菅虎雄は棺の旗を揮毫した。後、雑司ヶ谷の墓碑も虎雄が書いている。桂堂と元成は、釈宗演導師に従い経を読んだ。そして、初七日まで夏目家に残り経を上げた。
その後、珪堂は、神戸に帰り修行を続け、円覚寺僧堂でも修行した。そして、丹波市の少林寺住職となった。昭和2年、後に円覚寺管長となる朝比奈宗源から円覚寺帰源院の住職にならぬかと勧められ、帰源院住職となった。帰源院に移って後、珪堂は、漱石が若いころ参禅のため宿泊した塔頭であることを知り、「わが仏道をひらき、わが終る所」を得たといって感激したという。
東慶寺門前のかつて稲田があったあたりに、「夏目漱石参禅百年記念碑」が立つ。この碑を見て、漱石を想い、禅を世界のZENにした釈宗演老師を想うと同時に、中村是公、菅虎雄、そして珪堂師など漱石ゆかりの人々にも思いを致して頂けたら嬉しく思います。
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鎌倉は文豪が居住したり訪れたりしております。その中で、史跡めぐりをするにあたって学んだ「漱石
についてご講演されたというお話ですが、内容が深く漱石の人間性に迫ったご講演でした。漱石生誕150年のこの機会に「漱石」を再発見することが出来ました。タイムリーなご講演有難うございました。


2017.11.28
2017.11.25

平成30年1月より宝戒寺さんの拝観料が100円から200円に変更となる見込みです。


2017.11.23

満員御礼
1月特別企画Cコース「天才仏師・運慶の傑作を鑑賞」の実施日1月30日(火)は、定員に達しましたので申込を締め切りました。ありがとうございました。


2017.11.14


ガイド技術向上プロジェクトの一環で、「シンポジウム及びグループ・ディスカッション」が開催されました。
ベテランガイドのパネラーによるプレゼン後は、パネラーを交えての活発な意見交換。
ガイド説明内容の組立て、話の内容・話し方、顧客とのコミュニケーション、ガイド時のマナー等、協会あげて、ガイド技術のレベルアップに努めています。


2017.11.11


鎌倉ガイド協会が加盟する協議会が共催し神奈川県が後援する「まち歩きツアー」です。鎌倉ガイド協会は専門ガイドとして平成30年2月21日(水)の「まち歩きツアー」に参画する予定です。乞うご期待!!


2017.10.16


めっきり秋の気配が感じられるようになりました。
鎌倉ガイド協会は史跡めぐりの下見を各コース共、数回行っています。その際、清掃ボランティア活動も忘れていません。
秋にお薦めの企画が目白押しです。奮ってのご参加、お待ちしています。


2017.09.26

日時 10月22日(日)13時~14時30分
場所 鎌倉市教養センター大教室
   鎌倉市笛田2-17-1(京急バス鎌倉山バス停徒歩8分、江ノ電バス深沢バス停
   徒歩12分、江ノ電バス教養センター前徒歩1分)
   鎌倉市教養センターは、鎌倉市内にお住まいの60歳以上の方が利用できます。
講座 鎌倉市教養センター文化祭公開講座
   テーマ「鎌倉と夏目漱石~参拝百年記念碑をめぐる人々~」
講師 関谷哲雄(鎌倉ガイド協会会員)
お問い合わせ(鎌倉市教養センター)
   ℡0467-32-1221 Fax32-1203
皆さんの参加をお待ちしています。(お車での来所はできません。)


2017.09.26


テーマは「-日本の仏像美術の流れー」、講師は鎌倉ガイド協会会員の金子俊明さんです。
金子さんの講演要旨は以下の通りです。
はじめに
本日は仏像の歴史、仏像の変遷についてお話をします。時代的には鎌倉時代には仏像の形式がほぼ固まったので鎌倉時代までになります。以前「仏像の歴史」の講座があり受講しておりました。長く受講する気持ちはなかったのですが、3年3か月でようやく運慶が登場しました。今日は3年3か月を2時間に纏めてお話をいたします。ガイドをする中で仏像はかならず出てきますので、ガイドの時に役に立てていただきたい。
1、 仏教伝来と仏像
1)百済の聖名王が仏教を伝え、天皇に金銅製仏像等を献じたが、疫病が流行り「播神」とされ、仏像は難波の堀江に捨てられた。
2)百済から渡来した鹿深臣が弥勒菩薩石像1躯をもたらし、大野丘北に堂を建て法会を行った。その後疫病が流行りその理由が仏会のためとされたので、仏像、仏殿を焼き残った仏像は難波の堀江に捨てられた。
3)用明天皇が病に倒れられて「自分は仏法僧の三宝に帰依したい」と述べ崩御。蘇我・物部・中臣と争い、仏教崇拝者が勝利したため仏教崇拝が始まり崇峻天皇の時代には仏教の興隆をみた。
4)東博法隆寺献納宝物143号の如来と脇侍のように、渡来人によって請来されたと思われる小金銅仏が今でも存在している。
2、飛鳥時代の仏像(7世紀)
大寺院の造立とともに多くの仏像が制作された。前半は朝鮮半島の影響が強く、後半白鳳時代になると遣唐使の派遣により大陸の影響を受けるようになった。
1) 飛鳥寺の釈迦如来である飛鳥大仏は推古十三年(605)仏工鞍作鳥により着手、完成は翌年。現存する最古の仏像である。鎌倉時代の火災で破損し、当初部は両眼、鼻、額を含む顔の上半分や右手の第一指~三指などごく一部となっている。
2) 法隆寺の金堂に祀られている金銅製釈迦三尊像は推古三十一年(623)の造立、司馬鞍首止利仏師の作。両眼を見開き、口元はアルカイックスマイル、左右対称の正面観照性(像に厚みが無い)が特徴。
3) 法隆寺夢殿の救世観音は樟の一木造り。木彫像として最古の作品である、半島系の仏師により制作されたか、推古天皇に奉献された請来仏であろう。左右対称性、正面観照性。
4) 法隆寺百済観音は白鳳時代の作。日本人により作られた日本人的な表情で写実的になった。
5) 広隆寺弥勒菩薩半跏像は半島系の仏師により制作されたか、献納されたもの。
6) 中宮寺弥勒菩薩半跏像は日本的な表現がみられ、優美で写実的な造形。
7) 7世紀半ばころから、唐との交流により、塑像、乾漆像、塼仏像などが制作された
当麻寺弥勒如来坐像は我が国最古の塑像で表面布目貼に金箔を施している。
当麻寺四天王像は乾漆像で我が国最古に属する
川原寺や山田寺跡から大量の塼仏が出土した。(塼仏は粘土を雌型の原型に押し当て写し取り乾燥させ焼いたもの)
3、奈良時代の仏像(8世紀)
仏教が天皇中心の政治体制を支える性格を帯び、寺院および仏像が盛んに造営された。仏像の制作は官営の工房に属する仏師がになった。
遣唐使や唐からの渡来僧による仏教美術の請来により唐風の造形と飛鳥以来形成された我が国の造形伝統が混交した。
1) 8世紀前半には金銅像では薬師寺の薬師三尊像や大仏があり。塑像では法隆寺五重塔本塑像・東大寺戒壇堂四天王立像・東大寺法華堂執金剛神立像、日光・月光立像がある。乾漆像では興福寺八部衆、十大弟子立像や東大寺法華堂不空羂索観音菩薩がある。
2) 8世紀後半ではカヤ、ヒノキを用いた木彫像の出現があった。唐招提寺に木彫像が多いこと、唐風の表現から鑑真の影響が考えられる。唐招提寺の像には白檀を用いて彫刻した檀像があり、日本では白檀が取れないので代用檀像としてカヤ、ヒノキ、カツラなどが使用された。中国で作製され日本に請来した多武峰伝来十一面観音立像や清凉寺釈迦如来立像がある。日本の檀像としては唐招提寺伝衆宝王菩薩像立像や伝薬師如来像があるが鑑真の一行の渡来工人の指導が推定される。奈良博の十一面観音立像、元興寺の薬師如来立像、法華寺の十一面観音立像、法菩提院の菩薩像がある。
3) 木心塑像や木心乾漆像が作られる 作例として聖林寺の十一面観音立像や唐招提寺の千手観音立像がある。
4、奈良時代末から平安時代前期(木彫像の確立)
仏教の展開により仏像の種類が増加した。玄昉が帰朝し密教経典を持ち帰った。空海も曼荼羅や密教経典を携え帰国した。これらの密教経典により明王像が作られた。木彫像が仏像の中心となった。
1) 密教像
天平以来の伝統とは異なる肉厚肥満、デフォルメ、呪い力の発言的表現が見られる仏像で神護寺薬師如来立像や東寺講堂の仏像群また新薬師寺薬師如来坐像及び観心寺如意輪観音像がある。
2)神像 東寺八幡神像や松尾大社の男女神像がある。
5、平安時代中期(和様の形成、寄木造りの初期)
1)和様のきざしともいえる高雅な品性と和らぎや華やぐ表現が見られるようになる。また一木造りから一木割り矧ぎを経て寄木造りが生まれた。和様として仁和寺阿弥陀三尊像や法性寺千手観音像、同聚院不動明王像がある。 
2)不動明王像には弘法大師様(作例としては東寺の不動明王で頭は総髪、頭上に蓮華、両眼見開く、上齒をかむ、左弁髪を垂らす)と天台系(頭は巻髪、頭上に七、天地眼、上下に牙を出す)がある。
3)寄木造りとしては六波羅蜜寺薬師如来坐像と広隆寺千手観音菩薩坐像がある。
6、平安時代後期(和様の盛期、寄木造りの発達)
寺院から独立し工房を構え院や有力貴族の造像を行う仏師が現れ、康尚、その子定朝により確立した。
1)仏師定朝は仏師康尚の子で弟子である。法眼についた。工房を持ち大仏師20人、小仏師105人を抱えた。作例は過剰な飾りのないなだらかさと明るさ大らかさをもった和様の達成をみた平等院鳳凰堂阿弥陀像がある。
2)定朝以降では覚助は名前の確かな作品は残されていないが、長勢には広隆寺薬師如来の脇侍像や二神将像がある。覚助の次世代には院助がおり院派の系譜をなした。長勢の弟子には円勢がおり円派仏師の始まりとなった。覚助にはもう一人の弟子頼助がおり、奈良に活動を移し奈良仏師と称された。
院派は院助の後に院覚が出て待賢門院による法服地蔵菩薩像や法金剛院阿弥陀堂の阿弥陀如来像がある。院覚の後は院尊で円派を凌ぐ活躍をした。平清盛の病気平癒のため薬師如来と十二神将を造仏、興福寺の復興は講堂担当として丈六阿弥陀三尊像を造立。後白河法皇の長講堂の阿弥陀三尊像も造立した。
円派では長勢の弟子円勢が円派仏師の始まりとなった。円勢の弟子に長円と賢円が出た。長円は仁和寺北院の薬師如来坐像が最初の造仏である。尊勝寺の造仏や白河院の宝荘厳院丈六九体阿弥陀堂の造仏を行った。賢円は白河院や鳥羽院の造仏を手掛け、鳥羽金剛心院の九体阿弥陀仏の造仏を院尊との共同制作で行った。
安楽寿院阿弥陀如来坐像は円派仏師賢円又は長円の作と想定されるが、鳥羽離宮東殿に建てられた三重塔の本尊で密教の妙観察智印を結び安定感に富んだ姿で面長薄く開いた伏し目と口唇衣文表現に定朝の写しではない独自性がみられる。
3)奈良仏師、慶派 
覚助の弟子頼助は興福寺伽藍復興に関わり「御寺仏師」と呼ばれた。頼助の息子康助は春日大社の造仏に携わる。また摂関家や鳥羽院関係の造仏に関わっている。後白河上皇御願の蓮華王院本尊が康助であるとする見解がある。康助の没後は康朝より若い傍系であるが康慶が奈良仏師を継承したとみられる。この康慶が慶派の租である。奈良仏師の作風は古典の伝統を踏まえた力強い作風であった。康助作と思われる北向山不動院の不動尊や康朝作とみられる七寺の観音菩薩・勢至菩薩がある。
7、平安時代後期から鎌倉時代前期(慶派仏師の新風)
1)康慶の活躍 
慶派仏師の統率者として興福寺や東大寺の再興に当たる。彫刻に現実性とリアリズムを追求した。興福寺では主要な堂の造仏ではなかったが、東大寺では二天像や大仏の脇侍像、四天王像を担当し独占的に造仏活動を行った。これは、鎌倉幕府との関係を作ったことによる。
康慶自身の作としては、この他瑞林寺地蔵菩薩像や興福寺南円堂不空羂索観音像などがある。
2)運慶、快慶の登場
運慶、快慶の共通的な視点で言えることは、現代に通ずる芸術性があり、仏像として彫刻作品として仏堂を離れても観賞できるということである。運慶は写実主義で外形をまねるだけでなく本質に迫る動態描写がある。 快慶は平安後期の優美さ、自身が浄土教に帰依しているので阿弥陀如来は来迎形である。
運慶の造仏は13件31体あり、円城寺の大日如来坐像がデビュー作である。 快慶の造仏は慶派仏師の中で作品数が多く端正な美意識がある。
3)運慶工房の仏師
快慶や康慶の弟子と考えられる定覚、実慶、宗慶、源慶、静慶、そのほかに定慶がいる。
8、鎌倉時代中期・後期(その他の慶派、院派、円派)
1)運慶の後継者 
運慶の子息には湛慶、康運、康弁、康勝、運賀、運助の6人がおり、大仏師運慶の下で小仏師として造仏活動に携わっている。湛慶は慶派仏師の棟梁として活躍し東大寺大仏師に補任された。晩年の作は後白河法皇の蓮華王院本堂千体千手観音像再興の大仏師となり中尊とその他9体がある。作風は温和な表現の中の微妙な写実に特色がある。康弁は東大寺南大門仁王像を小仏師として担当、単独では興福寺旧西金堂の天燈鬼像・龍燈鬼がある。康勝は単独作として東寺御影堂の弘法大師像がある。
2)その後の院派、円派
慶派の活躍が目立つが、宮廷貴族の世界では院派、円派が活躍している。法勝寺の九体阿弥陀堂の再興では隆円、院承、院継、院恵、院宗の5人が大仏師をつとめている。蓮華王院本堂の再興で造仏の数は院派が104躯、円派が42躯で慶派の22躯を凌いでいる。宝積寺の十一面観音立像は院範の作とされ穏やかな顔立ちやあさい彫りなどやわらかな上品な表現に平安後期の風を残している。
3)その他鎌倉時代の特色
現実主義の協調として裸形像や玉眼があり、頂相彫刻・宋様式の取り入れがある。
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いつもは金子さんとはあまりお話をしたことが有りませんでしたが、仏像の講座を熱い口調で話して下さいました。3年3か月の想いや重みの伝わる講座でした。先輩の皆様の勉強熱心なことに助けられている自分を思う2時間でした。金子ガイド有意義な講義有難うございました。(森川節子速記録)


2017.09.26


サブタイトルは-「甲斐源氏」の里で”鎌倉“に想いを馳せるーです。
コースは鎌倉・大船=《バス》⇒放光寺~恵林寺~信玄館(昼食)《バス》⇒甲斐善光寺~東光寺~かいてらす=《バス》⇒鎌倉・大船

甲斐の国では甲州市のボランティアガイドの方達に放光寺と恵林寺を甲府市のボランティアガイドの方達に善光寺と東光寺をご案内頂きました。お暑い中、それぞれの市のボランティアの方達四名で対応していただき心より感謝致します。
参加者は93名 10期生が入会したので参加者数が過去最高となりました。

1、―「甲斐源氏」の里、甲斐の国―
八幡太郎義家の弟である源義光の子義清が、甲斐の国に移り住み、その子孫が甲府盆地一帯に本拠を築いた「清和源氏一族」である。武田信義を棟梁に富士川の戦いの頃は団結していたが、頼朝派の加賀美氏、義仲派の安田氏、独立派の武田氏、一条氏などに分裂した。その後甲斐源氏は甲斐を基盤とし各国に御家人として勢力を広げた。代表的な存在としては武田氏、笠原氏、南部氏などがある。
2、放光寺
元暦元年(1184)源平合戦で功績のあった新羅三郎義光の孫安田義定が戦勝記念として館近くに建立した。もとは法光山高橋寺を移し高橋山多門院放光寺と改め、安田家の菩提寺とした。
義定は建久四年(1193)子の義資が永福寺の落慶供養式において名越邸で殺されると、頼朝の勘気を蒙り所領浅羽荘を没収され地頭職も免ぜられた。翌年梶原氏に謀反の嫌疑を受け甲州に落ちのびこの寺で自刃したと伝わる。
開基堂の毘沙門天は、梶原景則が義定の亡霊に悩まされ、義定を供養してつくったと伝わる。
その後放光寺は武田信玄が祈願所として寺領を寄進、天正十年焼失するが徳川家康の庇護を受け寺領を安堵され、仁王門、愛染堂は天正年間に、庫裏は慶長年間に再建された。寛永年間には柳沢吉保の援助を受け、安田若狭守宗雲が中興開山となり伽藍の整備がされ、現寺域の基礎をなした。
愛染明王像は「天弓愛染」と称される珍しい像である。
3、恵林寺
元徳二年(1330)に二階堂貞藤(道蘊)が、邸宅に夢窓礎石を招き開山した。甲斐臨済宗の中心となる。応仁の乱で荒廃したが、その後武田信玄が菩提寺となり復興した。天正十年(1582)織田、徳川連合軍による甲州攻めでは、寺に逃げ込んだ佐々木次郎(六角義定)等の引き渡しを拒否したため、怒った織田信長は快川和尚はじめ約百人の僧侶らを三門に閉じ込め焼き討ちにする。快川和尚が「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と発し焼死した。その後、徳川家康が再建した。柳沢吉保は武田家に連なる一族、信玄の法要や寺内の修復に努めた。明王殿に祀られる「信玄生不動」は夢窓礎石築庭の池泉回遊式庭園は甲府八景にも詠まれる名勝庭園である。
4、甲斐善光寺
川中島の合戦で信濃善光寺が焼失するのを恐れた武田信玄は信濃善光寺の本尊善光寺如来をはじめ、諸仏、寺宝類を移すため、永禄元年(1558)甲斐善光寺を創建した。武田氏滅亡後善光寺如来は、織田・徳川・豊臣を転々としたが慶長三年(1598)信濃善光寺に帰座した。甲斐善光寺では本尊を建久六年(1195)僧定尊造の善光寺如来の前立像であった銅造阿弥陀三尊像を本尊として定めた。昨年7年おきの開帳があった。宝物館には木造の頼朝坐像、木造実朝坐像が収蔵されている。
5、東光寺
保安二年(1121)源義光が建立し、寺号を興国院とした。荒廃していた寺院を弘長二年(1262)に甲州に配流されていた蘭渓道隆が禅宗寺院として建立し東光寺に改めた。武田晴信の庇護を受けて再興法蓋山東光興国禅寺に改めた。諏訪領主の諏訪頼重が幽閉され自害した寺と伝わる。また、謀反の疑いをかけられた武田義信が幽閉され永禄十年に死去した。裏山墓地には頼重や義信の墓所がある。江戸時代には、徳川氏により寺領、山林の安堵を受けた。仏殿は入母屋造檜皮葺屋根の様式を残す室町時代後期の禅宗様仏殿である。
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「甲斐で鎌倉にであう」

お会いしたかった、頼朝の木像と実朝の木像。できれば、会いたくなかった政子の木像。元の密偵の疑いをかけられ甲斐に配流された蘭渓道隆。二階堂道蘊に招かれ恵林寺を開き、国名勝の庭園を作庭した夢窓礎石。鎌倉の永福寺を思い出す二階堂貞藤(道蘊)。安田義資に罠をかけた梶原景時にお会いできました。
それぞれの寺院では、ボランティアガイドの方達のご案内により、何気に見ていた風景が歴史の中の一ページへといざなわれました。戦をしながら仏像を大切にした武田信玄、快川和尚の覚悟の美、珍しい「天弓愛染(愛染明王像)」に放光(お寺の名称)を重ね、一つの石像の六地蔵、忘れてはならないワインの味等。楽しい有意義な甲斐路研修となりました。研修会をセッティングして頂いた企画の方達有難うございました。(森川節子記録)


2017.08.19


鎌倉ガイドは史跡めぐりの下見で清掃ボランテイアをしています。
7月19日鎌倉花火大会にも次のガイド10名が清掃ボランテイアに参加しました。
鷺さん、小杉さん、福島さん、山村さん、後藤さん、坂本さん、高橋聰さん、島田さん、北嶋さん、林さん


2017.08.18


 毎月中旬頃木曜日午前11時20分頃から「鎌倉シーサイドステーション」番組で、当月の史跡めぐりABCの見どころやハイキング中の注意点などを、楽しく分かりやすく紹介しています。
 アナウンサーとの当意即妙なやり取りや、鎌倉の歴史の「うんちく」が聴けますヨ。
鎌倉の季節のうつろいや、お祭り、花々など、鎌倉ガイドの千葉さんならでの語りです。
是非、鎌倉FMも楽しんでみてください。


2017.08.08

8月特別企画Cコース(鎌倉における三浦一族の合戦の跡を歩く)につきましては、多数のお申込みを頂きまして、誠にありがとうございます。 (本コースは終了しました)
 特に、初日の21日(月)につきましては、申込者が非常に多数にのぼるため、今後、新規にお申し込みをご検討いただいているお客様には、ぜひ後の23日(水)の方にお申込み下さいますよう、伏してお願い申し上げます。
 また、既に21日にお申込み頂いているお客さまの中で、23日(水)に振り替えても良いとお考えの場合は、当日の受付時に振替の旨を口頭でお申し出頂ければ、当日受付を致しますので、よろしくお願い致します。取り急ぎお願いまで。


2017.08.05

祇園山ハイキングコース。東勝寺跡、腹切りやぐらから大町八雲神社に至る約30分程の山道。尾根道ではシソ科のアキノタムラソウが可憐な花をつけ、ヤブミョウガの白い花が夏の濃い緑に映えています。見晴台からは由比ヶ浜が望めます。(アキノタムラソウとヤブショウガの写真掲載)
鎌倉市観光商工課‏ @kamakura_kankou  ⇒ 検索
蝉時雨の祇園山に涼を求めて(8月史跡めぐりBコース)-鎌倉幕府跡を訪ね、見晴台から鎌倉を一望ー は、大手新聞メデイアにも紹介される予定です。乞うご期待!!


2017.08.05


 平成29年7月9日(土)「救命入門コース」の講習会が開催されました。講師は鎌倉市鎌倉消防本部高橋様、山本様、佐々木様、斎藤様です。受講対象者はガイド協会9期生10期生のガイド。講習は2時間47名が2回に分け受講しました。
1、応急手当について
 お配りした、救急蘇生の手順をバインダーにはさみガイドをして頂きたい。救急車が到着するのは平均で7分かかり、道路状況や119番通報が重なると当然遅れます。バイスタンダーが救急車到着の間何をするのかを今日は学んでいただきたい。100%命を救う事は出来ないが、社会復帰が可能なようにお手伝いが出来たら良いと思います。呼吸が止まると15秒で意識を失い、3分で脳が失われ始まる。救急車が到着するまでの間バイスタンダーの対応により脳を救うことになります。
 まず、救急車を呼ぶ、場所を聞かれたら落ち着いて鎌倉市内と伝え、目標を伝える。目標が分からない場合、電柱や支柱の番号で答え、傷病者の年齢、性別、どのような状況かを伝える。
1 熱中症 
 この所の暑さは経験したことのない暑さなので無理はしないように、特に高温多湿の日は注意をする。熱中症にならない予防としては病気にならない体をつくる。水は血液が薄まるので、ミネラル(麦茶・OS1)を含む水を持参し、のどが渇かなくても補水を心がける。意識がある場合は体を休ませる。腋の下や大腿部を冷やす。汗が無くなると意識も無くなる。
2 心筋梗塞・脳卒中・脳梗塞・くも膜下出血
 心筋梗塞は冷や汗が出て胸が重苦しくなる。放散痛により齒、首、腹が痛くなる人もいる。又高齢者や糖尿病の人には痛みのない場合もある。2時間以内に病院へ行くことが命を救うのに重要です。脳卒中は気持ちが悪くなったり、マヒが出たりする。くも膜下出血では後頭部に激痛が走る、1回目の出血では助かっても2回目では亡くなる人が多い、特に女性に発症が多い。
3 怪我人
 体液や血液は感染の恐れがあるので直接手を触れないでゴム手袋を着用する。骨折には三角巾を使用し吊る長さを調節する。指先は見えるように本結びで結ぶと楽にほどけます。副木には傘、雑誌を利用する。搬送にはおんぶがベターであるが自分より体重の重い人はおぶわない。毛布があれば手巻きずしの要領で人に巻き付け頭の方から引いて運ぶ。蜂に刺された場合はアレルギー反応があるので注意し蜂の毒は口では吸わないように、ポイズンリムーバを使用する。ショック状況は冷や汗が出る、呼吸が荒くなるので119番通報する。蜂に刺されないようにするには、長袖を着用し黒い服は着用しない。帽子をかぶる。
2、心肺蘇生法の実技指導
1  傷病者の発生
2  安全の確認 周囲が安全かを確認する。
3  反応があるか確認 近づいて肩を叩きながら声をかける。1回目は小さく次第に大きな声で3回くらい行う 
4  反応のない場合は大声で応援を呼ぶ。119番通報とAEDの依頼をする。
5  呼吸の確認をする 胸部・腹部に動があるか見ながら10を数える。 
6  呼吸が無い場合は心肺蘇生法に移る 胸骨圧迫の開始(場所は左右の乳首の真ん中)(形は両手を重ね、手のひらを下に) 強く押す(成人は5㎝くらい沈むよう)一分間に100回から120回くらいのスピードで絶え間なく30回行う。
7 蘇生が無い場合は人工呼吸を2回行う 傷病者の鼻をつまみ、顎を上げ気道を確保し行う
8 心肺蘇生法と人工呼吸を繰り返す
9 AEDが届いたらAEDを装着する 傷病者が他から見えないように周囲を囲んでもらう。
装着している間、他の人に心肺蘇生法を続けてもらう。
装着はAEDの指示に従う。
傷病者の胸が濡れていないか確認し、肌に直接電極パットを1枚は右鎖骨の下へ1枚は左腋の下から5㎝から8㎝の所に密着させる。張り薬の上や心臓ペースメーカや除細動器の上には付けない。
10 電気ショックが必要な場合は人が傷病者から離れたことを確認しスイッチを押す
11 さらに救急車が到着するまで、傷病者が蘇生するまで心肺蘇生法を続ける。
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気温が30度を超すと救急車の出動が増加するそうです。そのようなお忙しい中を「救命入門コース」の指導をして頂き有難うございました。現役の頃、普通救命士の講習を受けましたが、当時はAEDがなかったので、今回の講習でガイド中の事故に、より良い対応が可能になりました。有意義な講習を有難うございました。(森川)
(なお、別途原田理事が鎌倉消防署より「救命講習テキスト」を入手されましたので、さらに上級のコースを受講される場合などの際には、ぜひ参考にして下さい。)


2017.08.01

鎌倉ガイド協会twitter ⇒ 検索

https://twitter.com/sfXNu9gpuIpY0x1

旬の鎌倉をガイドが自慢の写真にコメントを付けて発信しています。
ぜひ、ご覧ください。
鎌倉ガイド協会
@sfXNu9gpuIpY0x1


2017.07.20

 7月19日鎌倉花火大会に清掃ボランテイアとして、当協会員10名が参加して協力しました。


2017.07.11


〇日時 平成29年7月8日(土)
(午前の部10:00~12:00/午後の部13:00~15:00)
〇場所 鎌倉消防署3F
〇受講したガイド 約50名
〇主な内容:
・119番通報の際、連絡事項は「市名(携帯電話からの通報では、通報地点を管轄しな
 い消防本部につながる場合がある為)と場所」及び「患者の状態」
・救急車が到着するまでの平均所要時間は7分。倒れた人の呼吸が止まって3、4分後に
 は組織がダメージを受けることから救急蘇生が必要
・心筋梗塞と脳卒中(脳出血・脳梗塞・くも膜下出血)の各々の症状の特徴を学習
・AEDを使用する心肺蘇生法の実技演習
・腕等を骨折した場合の三角巾の取り扱い(患部を固定、雑誌等でそえぎも)
・患者の運搬方法 (毛布等の利用)
・ハチ等の毒虫対策(ポイズンリムーバー)
・熱中症の処置法(意識があるなら、水分・塩分の補給、涼しい場所への移動。首のまわり、
 脇の下等の冷却)

3グループに分かれての実技研修は30回の胸骨圧迫+2回の人工呼吸を数度繰り返すもので、汗だくになりましたが、講習後には、無事全員に、ラミネートに入った「救命入門コース参加証」が配布されました。


2017.07.03



平成29年6月10日(土) 定例研修会が開催されました。
今回のテーマは『「鎌倉の仏像の特徴と土紋装飾」と題して』
講師は鎌倉ガイド協会 飯田安正さんです。
1、仏像の見方と観賞の秘訣
仏像には部位ごとに仏様の教えがある。その教えには大勢の人の声を聞くことのできる長い耳、知恵が豊かである肉髻や螺髪、慈悲の光を放つ白毫、無垢を表す反った爪、命あるものを残らず救う水かき膜、仏が放つエネルギーが表現される衣文、仏から発する光を表す光背がある。
2、木造仏像の構造
仏像は木、鉄、銅等で造られているが99%木造である。木材と造作は鎌倉時代より以前、頭及び身体幹部の根幹を一木で造る一木造りが中心であった。寿福寺の地蔵菩薩は170㎝あるが頭から台座まで一木で造られている。また、一木割矧造といって一木を割り離し内刳を施し再び組み合わせる技法がある。これは重量の軽減と干割れを防ぐ効果がある。現在は大きな仏像が造ることが出来る、像の体の中心部分を複数の木材から作り出す寄木造が多い。
円覚寺の宝冠釈迦如来像や長谷寺の阿弥陀如来像のように首から上を別材で造り差し込んだ差し首という技法もある。眼の表現としては古くは彫眼であったが鎌倉時代になると水晶を用いた玉眼となった。表面仕上げには、漆を摺りその上に漆で金箔を貼る漆箔がある。また平安時代には金箔がされたが、鎌倉時代には、より人間の皮膚に近づく金泥がされるようになった、截金、土紋、置き上げ胡粉があり、これらを組み合わせて作成された。
3、鎌倉地方(東国)の仏像の歴史
平安時代に京では院派や円派の仏師がおり、朝廷や藤原氏の影響が大きかった。東国は仏像として未熟で「京からは認められていなかった。東国の特徴ある仏像としては鑿の跡が残る鉈彫りの弘明寺の十一面観音像がある。
鎌倉時代前期には京都の仏師により、東国で仏像が制作されており、光明寺の阿弥陀如来像は京都の仏師が造立した。また、奈良で仏像の修復を行っていた慶派の仏師を鎌倉武士が起用した。
鎌倉後期から南北朝時代になると鎌倉地方文化が確立した時代といえる。東国武士が中央と違う革新的文化を創出し、仏像も慶派と宗風が融合した仏像が鎌倉仏師により造られた。代表的な仏像が鎌倉大仏であり、宗風な特徴を持っている。
室町時代には鎌倉公方の衰退により鎌倉文化は退化し、芸術性の高い仏像は少ない。
4、鎌倉の仏像の特徴
慶派の仏師は奈良で仏像の修理を主に行っており、奈良東大寺の諸像修復に尽くした慶派仏師を東国に招いた。慶派仏師は宗風彫刻と融合した鎌倉地方の新様式を確立した。特徴として①法衣垂下像 法衣は着衣の裾が長く垂れている。垂下像は西御門にある来迎寺の地蔵菩薩像や寿福寺の栄西像がある。②半跏像 片手を地面につけ片足を下げている。半跏像は東慶寺の水月観音や非公開であるが禅居院の聖観音がある。③肖像彫刻 禅僧の肖像彫刻を頂相彫刻と呼び、円覚寺の仏光国師像や建長寺の大覚禅師像がある。武人の肖像彫刻は鎌倉地方の特色で俗体像の伝頼朝像や建長寺の北条時頼像があり両像は大変似ている。また法体像では浄光明寺に北条長時像がある。④土紋装飾 土を型抜きし仏像に貼付したもの。⑤裸形像 身体のみ彫造し、その上に衣を着せたもので鎌倉とその周辺で流行した。
鎌倉には運慶造の真作はないと思われる。運慶造は願成就院に阿弥陀如来像ほか、浄楽寺に阿弥陀三尊像ほか、東大寺の金剛力士像、興福寺の弥勒仏坐像ほか、20年前に発見された称名寺光明院の大威徳明王がある。
5、土紋装飾について
宋から渡来した禅僧や宋から帰朝した僧や工人が宗風の塑像彫刻をもたらした。宗風の特徴は眉・鼻・口がとんがっていることで、北条久時が宗風の癖をそのまま受け入れられず独特の手法「土紋装飾」を考え出した。土紋装飾とは宋の技術と慶派仏師の技術により独自の手法を開発したものである。土紋装飾に使われる土は細砂に地の粉をベースに胡粉や粘土及び顔料を混ぜて作り、造形の技法は大型の模様では型抜きした文様をそのまま貼付する。中型では貼付後箆で調整する。小型では土を貼付し箆で模様を作る。土紋は柔らかいためその上に金泥を塗って固めた。
文様は植物文(唐草文・牡丹文・花丸文)法具文(輪宝文・金剛杵文)鳥獣文(鳳凰文)などがある。鎌倉のみ造立されたのは鎌倉武士が中国文化を取り入れ独自の文化を創造する気風から中国風の雰囲気を持ち立体的な「土紋」を考えた。しかし、修復が困難なこと湿気に弱いことで造られた期間は1300年~1400年頃の100年にとどまった。また京都からの見方は仏像に土を貼る事への抵抗・立体感がありすぎること、また足利幕府の京都風への傾注から土紋装飾の仏像は造立されなくなる。
6、土紋装飾のされた仏像は鎌倉には現存する七体と断片二片がある。そのうちの一体は秘仏の宝戒寺歓喜天像である。他にいわき市長福寺に地蔵菩薩坐像がある。
7、土紋装飾の仏像の概要(拝観できる6体)
①浄光明寺 阿弥陀如来坐像 北条久時の発願により1299年頃造立された。像高144.0㎝
上品中生印で宝冠を戴き蓮華座に結跏趺坐、法衣は裙・偏衫・大衣を着用している。桧材。寄木造。玉眼。表面構造は木地、麻布、硬地、漆層、土紋、白色層、金泥、截金と最も丁寧な造作である。
土紋装飾は右肩下に牡丹唐草文、葉文。偏衫には金剛杵、輪宝、菊文。裙には丸文と牡丹唐草。箆などで加工した後はほとんどない。土紋装飾として秀作である。
②東慶寺 聖観音菩薩立像 かつては鎌倉尼五山太平寺の本尊。鎌倉末期から南北朝前期造立された。像高134.5㎝、蓮華を持ち蓮台に立つ。宝髻を結い上げた菩薩で宗風。法衣は浄光明寺と同じ。桧材。寄木造。玉眼。表面構造は木地、麻布地、錆漆、土紋、白色層、金色層、截金。土紋装飾は大衣部に蓮華唐草文、葉文、蔓文。偏衫(右袖内側)に輪宝状半円文。偏衫(右袖外側)に法具状連続文。 型抜きによる形成は大まかで細部の模様は箆で調整している。大衣部全体に唐草文が施され絢爛豪華。
③伝宗庵 地蔵菩薩坐像 鎌倉末期から南北朝期造立。像高68㎝ 蓮華座に結跏趺坐。錫杖と宝珠を持つ。構造は桧材。寄木造。玉眼。表面構造は木地、麻布地、錆漆、土紋、白色層、顔料、金色層。土紋装飾は襟元や袖に梅の花、葉文。 材質は地の粉様の塑形土。砂粒が少し粗い。技法は花文を型抜きして貼付後箆で加工。葉文は手造りの塑形土を貼付し箆で形を整えてある。模様の配置は少し不揃い。
④来迎寺 如意輪観音半跏像 鎌倉末期から南北朝期造立された。像高97.5㎝ 六臂半跏像。持ち物は思惟、宝珠、念珠、垂下、蓮華、輪宝、天衣を纏う。桧材。寄木造。玉眼。当初の宝冠を戴いている。 表面構造は木地、麻布地、錆漆、土紋、白色層、金色層、截金。土紋装飾は裙に大型の輪宝、牡丹唐草。材質は粒の少し粗い細砂混じり塑形土。技法は型抜き後貼付し箆で調整してある。かなり丁寧な造り方で熟練した仏師の作。
⑤浄智寺 韋駄天立像 南北朝から室町前期造立された。像高86.9㎝ 甲冑を着けて沓を履き合掌した腕の上に宝棒をのせている。岩上の荷葉座に立ち輪宝光を背にする。桧材。寄木造。玉眼(茶水晶)表面構造は木地、麻布地、錆漆、土紋、白色層、金色層、後補の白色がその上に塗られている。土紋装飾は甲冑に毘沙門亀甲文、胸部と腹部に花文、葉文、帯と沓の止具にも土紋がある。材質は細砂を混ぜた地の粉様塑形土で色は茶褐色。技法は型抜きしたものを丁寧に貼付し細部を除き箆等で手を加えていない。甲冑以外の土紋は剥落がひどく江戸時代に修復し彩色が施された。
⑥覚園寺 阿弥陀如来坐像 南北朝期から室町中期造立された。もとは廃寺の理智光寺の本尊。像高136.5㎝ 阿弥陀定印を結び、結跏趺坐。光背は二重の円光。桧材。寄木造。玉眼。表面構造は木地、麻布地、錆漆、硬地、土紋、白色(または顔料)金色層。土紋装飾は花文に葉文を組み合わせた牡丹唐草文と輪宝文と推定、剥落がひどく模様の痕跡を残す程度のものが多い。材質は茶褐色の地の粉様の塑形土。技法は型抜きしたものか不明。表面仕上げは丁寧であるが、文様が簡素。土紋に割れ目があり塑形土の造りが不備とも考えられる。
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司会者のご紹介に「飯田ガイドは鎌倉の文化、歴史に造詣が深く、特に仏像や建物に深い方」と紹介がありました。私的なことですが、飯田ガイド主催の「鎌倉探訪有志会」に参加させて頂き、飯田ガイドの知識の深さと暖かい口調に魅かれ、鎌倉にはまりました。本日は仏像の写真をふんだん使用しての講義、有難うございました。


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