トピックス

2018.08.20


平成29年11月11日定例研修会が開催されました。テーマは『「中世の極楽寺と題して』
講師は極楽律寺ご住職田中密敬様です。
(トピックス反映が大変遅くなりましたこと、お詫び致します)

はじめに
今日は「中世の極楽寺についてお話をいたしますが、皆さんご承知のように、極楽寺は鎌倉にあって鎌倉時代にめざましい活動を行っていました。歴史とは鎌倉時代の前には平安時代があり、様々な要因が重なって緩やかに流れていく鎌倉時代に移行していく、つまり連続体です。忍性さんが極楽寺に入ったこと。お師匠さんの叡尊さんが西大寺を中心に活躍したことなど、それぞれがどのような経緯で起こったかをお話します。

DVD忍性菩薩
昨年、奈良国立博物館で特別展「忍性」が開催されました。それに伴い、忍性さん誕生の地である奈良県三宅町の浄土寺さんが作られた絵本をもとにしたDVDが制作されました。非常に良く纏まっており、忍性さんの業績が良く分かるのでまず御覧下さい。
「忍性」は今から800年前に聖徳太子ゆかりの地、屏風で侍の子として誕生しました。母親は文殊信仰の篤い方で、忍性には侍の子でなくお坊様になって欲しいと思っていました。
 16歳の時に母が亡くなり、忍性は文殊菩薩の教えを学びそして広めようと額安寺へ修行に参りました。翌年に受戒し忍性という名をいただきました。24歳になると西大寺で生涯の師となる叡尊の弟子となり、貧しい人々や癩病の人々を救うことに力を注ぎ、北山十八間戸を建てます。一人の癩者を背負って一日おきに市井への送り迎えを数年間続けました。ついにその癩者が亡くなるとき、この御恩を返すため来世も必ず人として生まれ変わりあなたをお助けしたいと思います。私である証として頬に痣を留めてきますから、存分に使ってくださいと。
 36歳の時に関東へ下向し、常陸国三村寺で10年間布教に勤め、その後鎌倉へ入ります。
51歳で極楽寺に迎えられ、療病所や馬の病舎を建て20年間で5万人の病人を救済しました。
 戒律を守り極楽寺に釈迦如来像や十大弟子を安置し、唐招提寺には鑑真和上の伝記を絵巻とした東征伝絵巻を奉納しました。忍性により極楽寺は立派なお寺となりました。
 後に東大寺や四天王寺の主務となり、生きた菩薩と言われました。日照りが続いた時には雨乞いをし、雨を降らし困窮した人々と共に歩んだ87年でした。遺骨は額安寺・竹林寺・極楽寺に分けられ、嘉暦三年(1328)に後醍醐天皇により菩薩号が贈られました。

平安時代後期からの動向
平家の台頭
天皇中心の朝廷に加え、上皇(太上天皇)による院政が始まり朝廷と院庁の二重体勢となって、荘園制度も崩壊しはじめる。それにより武士団を備えることになり、崇徳上皇と後白河天皇の勢力争いに発した保元の乱は後白河方が勝利し、清盛と義朝の平治の乱が起こり勝った清盛は朝廷の主導権を握ることになった。その後清盛は正三位太政大臣へ、内大臣は重盛など平氏の公卿16人、殿上人30人あまりの勢力となった。

以仁王の令旨により源頼政が挙兵
 夜な夜な天皇を悩ました怪物を射落とした源頼政は、平家一門が繁栄する中で三位まで上った唯一の源氏一門である。以仁王は弟の高倉天皇が平氏のうしろだてにより即位したことに不満を持ち、一方の頼政は嫡男の仲綱が清盛の三男宗盛から受けた陵辱を雪ぎたい、この思惑の一致により共に平氏打倒に立ち上がった。
 令旨を発した以仁王だったが計画は事前に露呈しており、頼政に守られながら三井寺から南都の寺院を頼って南下した。しかし、宇治において頼政は平等院の戦いで敗れて自害、以仁王も光明山の鳥居の辺りで追っ手に捕縛された。こうして計画は為し得なかったが、後の頼朝や義仲の挙兵へと繋がることになる。

南都への報復
興福寺は藤原氏の氏寺、春日大社は氏神として、背後には藤原一門の力があった。以仁王を匿おうとしたことより、報復が行われる。南都焼討ちである。治承4四年12月、平重衡が奈良北稜に放った火は北風にあおられて忽ちに市中に広がり、諸大寺が炎上した。九条兼実は日記玉葉に「七大寺以下ことごとく灰燼に変ずるとこの惨事を嘆いている。

末法思想
仏陀滅後千年は教えもよく伝えられ、悟りへ入る者もいる正法の時期。続く千年は教えは伝えられているが、悟りに入る者が少なくなる像法。次の一万年は末法といい、教えは衰退し悟りに入る者もほとんど居ない無仏の時期である。
日本における末法第一年は永承七年とされ、末法の世の到来を思わせる南都焼き討ちに人々の心は波立ち、この頃に社会に大きな影響を与え、続く源平争乱の時代へ入っていく。
また、阿弥陀信仰に関する事項を集めた「往生要集」を源信が記すと急速な高まりをみせる。それにともなって写経の奉納も盛んに行われ、有名なものには厳島神社に納められた平家納経がある。

南都の仏教
南都六宗とは、華厳・法相・律・三論・俱舎・成実の六宗である。現在は臨済宗・浄土宗などの宗派を名乗る時に「宗」の字を用いるが、南都六宗の場合は「衆」の字を用いた方が実状に即しているといえる。
「衆」とは集団を指し、華厳衆・法相衆のようにそれぞれを研鑽するグループという意味である。よって、一寺の中に複数の「衆」が存在することが普通であり、その「衆」がそれぞれ縁の仏菩薩の厨子を持ち、図書館を持っていた。「衆」の移動も比較的容易であり、複数の研鑽も可能であった。
現在の「宗」の感覚をもって考えると、その本質を見誤ることとなる。七大寺とは東大寺・興福寺・西大寺・薬師寺・大安寺・元興寺・法隆寺の本願を天皇や皇族に持つ官立である(唐招提寺は鑑真和上の私寺なので入れない)。
よってその本願である天皇が崩御した場合は陵墓をも守護することがあった。東大寺は聖武天皇陵・法華寺は光明皇后陵・西大寺は孝謙上皇陵の例がある。

鎌倉時代の戒律復興
平安時代末期から、南都を中心に戒律を復興する動きがあった。都である平安京では末法思想の影響により、来世に救済を求める浄土教が加速度的に広まっていた。時を同じくして既成仏教からも改革を提唱する、法相の実範や貞慶、華厳の明恵がいた。
平安時代の経済基盤であった荘園制度は崩壊し始め、新興の武士団から急成長した平氏一門も倒れた。国は混迷の度合いを深め、人心も乱れ始めた。
そんなときに仏教とはどのようにあるべきか?仏教教団が社会の中で正しく機能していた仏陀の時代に帰ろう。そのシンボルとして、また目指すべき理想の人物として清凉寺の三国伝来釈迦如来が選ばれた。この像は生身の釈迦として、平安時代に勧請されて以降、人々の尊崇を受けていた像でもある。西大寺・唐招提寺・極楽寺・称名寺・大円寺など百体余りが造像されたという。

そして東国へ
西大寺を拠点として活動した叡尊、唐招提寺を拠点とした覚盛が南都を中心に戒律復興運動を展開していた頃、寛元元年(1240)良観(忍性)は東国に向かったが仏教が未だ浸透していないことを知り、さらに学問を研鑽する必要を感じて西大寺に戻る。
あらためて建長四年(1252)春日大社に参拝の後、東国へ向かった。まず鹿島社に詣でた後、常陸国の小田時知の領地にある豊篋(ほうきょう)山麓の三村寺に入って布教に務めた。

極楽寺創建
忍性は弘長二年(1262)に師の叡尊が請われて鎌倉に下向すると、それを補佐するために鎌倉入りし北条業時創建の多宝寺へ入った。幕府の連署を勤めていた北条重時の別邸の持仏堂から発展したのが極楽寺であったが、当初は浄土宗であったと思われ宗観房が住していた。
弘長元年(1261)に重時が没し、その後に子息である長時、業時に請われて極楽寺開山として入寺する。極楽寺は西大寺一門の東国における拠点として、救済事業が行っていった。極楽寺は鎌倉西部の極楽寺通に面し、京都から鎌倉の主要道でもあり様々な救済活動を行うのに適した場所であったと思われる。また、長時は浄光明寺を、弟の業時は廃寺となっているが多宝寺をそれぞれ創建しており極楽寺とこの2ケ寺は同じ一族の寺と言える。

極楽寺の伽藍構成
金堂を中心として周囲の地形や街道に合わせた独特の伽藍配置を持ち、金堂には本尊である清凉寺式釈迦如来と眷属の十大弟子が安置されていたものと思われる。また、伽藍の周囲には救済施設である癩宿・療病院・薬湯室・馬病屋を作り桑谷にも療病所を構えていた。
この様な活動を行っていた背景には、貧窮孤独苦悩の人となって現れる文殊菩薩顕現が説かれた、『文殊師利般涅槃経』の思想を持っていた忍性の存在がある。
癩病とは古代より最も忌み嫌われてきた病で、発症すれば顔面や手足の末端の麻痺や顔面の結節が崩れるなどの症状が出る病である。発症初期は墓穴を掘ったり、牛馬の死骸処理などをして命を繋ぐことができるが、進行すれば動くことも難しくなり路傍で食を乞い最期を迎えるのである。
このような癩者に文殊菩薩の化身と見、福業(救済)した。その範囲は人を超えて馬なども対象とし、うち捨てられた馬の首に念仏札を、冬には防寒の為に布をかけていたという。
桑谷の療病所では20年間に5万人を収容・治療した。計算してみれば、年間2593人を治療、月では216人、月の死者は42人という計算になる。

極楽寺の戒壇
戒壇とは戒を授かるための場所という意味で、天下三戒壇とは奈良東大寺・下野薬師寺・筑紫観世音寺である。戒を授かる意義は、戒体を発得することにある。その戒体が戒を破りそうになったときに、抑止力となる。極楽寺戒壇で称名寺の湛睿(たんえい)も受戒したと思われる。

金堂供養
極楽寺は弘安九年(1286)に火災が起こっているが金堂はすぐに再建され、その落慶供養は文書によると舞楽や雅楽も行われ非常に華やかだったようだ。おそらく忍性の生涯の盛儀であったであろう。
現在も、室町時代の舞楽面が二面現存しているが、中世を通して舞楽を喪って供養することが行われていたと思われる。翌年に後深草院二条が極楽寺の印象を「とはずかたりに書いている。「明けくれば鎌倉に入るに、極楽寺という寺に参りて見れば、僧たちの振舞都にたがはず、懐かしくおぼえてみつつ」とある。
忍性は奈良出身であったし、南都や畿内の出である僧らが多かったのではないかと思われる。だからこそ二条はこの様な記載をしたのであろう。金堂という名称はかつて百済の聖明王から金色の仏像が贈られ、その像を納める為の堂舎の名称であり、宋代には仏殿とも呼ばれた。

鎌倉幕府の終焉
忍性菩薩が没し、その暮塔となる五輪塔を建立して二代長老となったのが栄真である。幕府滅亡の頃は順忍長老、菩薩号を得る為に朝廷に働きかけたのが俊海長老の順番にその職は次第する。
明治以前は西大寺末でいくつかの寺が長老の呼称を使っていたが、現在は西大寺のみ長老を使うことになった。また、かつて西大寺の末寺は1500ケ寺を数えたが、いまは90ケ寺ほどである。現在のような本山を中心に末寺があるのとは違い、末寺もまたそれぞれの末寺を持つなど多様に展開していた。

あらたなる時代へ
室町時代には幕府の所在が京都になり、鎌倉の支配は鎌倉公方に委ねられた。公方が古河へ移るまでは極楽寺は活発であったと思われる。
例えば毎年2月に行われる舎利会には公方の参拝があり、その後営中に御礼として招かれていたと記録がある。この舎利会の舎利がどこから伝来したかは詳らかではないが、忍性が奈良から持参した千粒の一部の可能性もある。鑑真和上の伝えた舎利は、現在でも唐招提寺での釈迦念仏会の荘厳として有名である。

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 極楽寺のご住職に研修会(要旨)を作成して頂き感謝しております。研修会では物静かな語り口と言葉を大切にされていることを感じました。「慈悲とは上下の関係でなく、相手の立場になって苦しみ、悲しみ、話を共有すること」とお話されたことが心に残っております。有意義な講義有難うございました。(森川節子速記)


2018.08.11


江戸時代には浮世絵に描かれた七里ガ浜。明治時代は保養地・別荘地として多くの著名人も利用しました。その魅力は温暖な気候、海、そして背後の鎌倉山。戦後は住宅地として開発され、近年はサーフィンを愛する人も惹きつけ、リゾート情緒あふれる街になりました。
閑散期対策プロジェクトチームの企画で、そんな鎌倉山、七里ガ浜の変遷(江戸時代から現代まで)を鎌倉ガイド協会の猪熊紀彦さんが豊富なガイド経験に基づいてお話されました。


2018.07.28

満員御礼
8月特別企画Cコース(歴史の「謎」に包まれた鎌倉尼五山!)(実施日8月24日(金)/28日(火))は、定員に達しましたので、申し込みを締め切りました。ありがとうございました。


2018.07.20

9月Aコース(初秋の北鎌倉 味わいの路地・小路歩き)は、諸般の事情により、コース内容が次の通り一部変更(削除)となります。(変更点)①光照寺(昇堂)はありません(コース経路より削除)。②参加費500円のみ(拝観料300円は費用より削除)。恐れ入りますが、「予告のご案内」で既にお申込みの場合は、7月末頃に発表されます「募集のご案内」で変更点をご確認下さい。お電話でのご照会には、折り返しのお電話番号とご氏名をお申し出頂ければ、担当のガイドが改めて変更点をご説明申し上げる予定です。ご迷惑をお掛け致しますが、なにとぞよろしく、ご了承下さいますようお願いいたします。


2018.07.10


PART7に引続きPART8の会員募集です。
鎌倉とその周辺では毎月伝統のある「祭」が神社や寺院で行われています。
「祭」それは神・仏への饗応であり「饗応」の本番は会食といえます。
「祭」を楽しみ、合せて鎌倉と周辺の名店で「会食」を楽しむ参加者を募集します。
ベテランのガイドが祭りの解説をし、ご案内を致します。
【祭】:
第1回 薄念仏(遊行寺)      2018年9月15日(土)
第2回 湯立神楽(白旗神社)       10月28日(日)
第3回 御鎮座記念祭(鶴岡八幡宮)      12月16日(日)
第4回 左義長(大磯北浜海岸)  2019年1月13日(日)
第5回 節分会(遊行寺)          2月 3日(日)
第6回 国府祭(六所神社・大磯)       5月 5日(祝)
第7回 建長寺開山忌(建長寺)       7月23日(火)
(祭は事情により、変更する場合があります)
【食】:各地域の名店(その都度ご案内します)
*会員は「祭」と「食」両方に参加していただきます*
[募集定員] PART8:40名 (お申し込み多数の場合は抽選になります)
   ※応募条件:全7回中5回以上に出席可能な方。
[応募締切] 2018年8月10日(金)(必着)
[参 加 費] 年会費(通信費他):2,000円  (初回参加時にいただきます)
      各 回 参 加 費  :1,000円/回(各回参加時にいただきます)
※会食費は実費負担:2,000~3,500円、 ※拝観料・交通費は別に実費負担
[参加お申込み方法]
 ○往復はがきに、①コース(「祭と食」PART8)、②住所、③氏名(ふりがな)、④電話番号
(固定および携帯)、⑤FAX番号、⑥メールアドレス(所有の場合)を明記の上、申込先へ
お送り下さい。 
※お申込みは一通につき1名様。往復はがき以外のお申込みは無効です。
 ○当選した方には会員証(詳細についてはその都度ご案内)をお送りします。
[申込先] 〒248-0014 鎌倉市由比ガ浜4-1-1
     NPO法人 鎌倉ガイド協会 「祭・食」PART8係
[問合せ] 9:30~15:30(休日:第2土曜日) TEL:0467-24-6548 FAX:0467-24-6523


2018.06.06


鎌倉の「祭」と「食」のガイドではPART7の会員を募集します。
鎌倉とその周辺では毎月伝統のある「祭」が神社や寺院で行われています。
「祭」それは神・仏への饗応であり「饗応」の本番は会食といえます。
「祭」を楽しみ、合せて鎌倉と周辺の名店で「会食」を楽しむ参加者を募集します。
ベテランのガイドが祭りの解説をし、ご案内を致します。
[祭]
第1回 法難会(龍口寺)          2018年9月12日(水)
第2回 流鏑馬(鶴岡八幡宮)             10月 7日(日)
第3回 御足参り(長谷寺)              12月18日(火)
第4回 涅槃会(宝戒寺・妙本寺)       2019年2月15日(金)
第5回 歩射(白岩神社・大磯)             3月 3日(日)
第6回 徳崇大権現会(宝戒寺)             5月22日(水)
第7回 天王祭(小動神社)              7月 7日(日)
祭は都合により変更する場合があります。
「食」は各地域の名店を、その都度ご案内します。
*会員は「祭」と「食」両方に参加していただきます
[募集定員] PART7:40名  (お申し込み多数の場合は抽選になります)
※条件:全7回中5回以上に出席可能な方 
[応募締切] 2018年7月18日(水)(必着)
[参 加 費] 年会費(通信費他):2,000円  (初回参加時にいただきます)
各 回 参 加 費  :1,000円/回(各回参加時にいただきます)
※会食は実費負担/2,000~3,500円、 ※拝観料・交通費は別に実費負担
[参加お申込み方法]
○往復はがきに、①コース(「祭と食」PART7)、②住所、③氏名(ふりがな)、④電話番号(固定及び携帯)、⑤FAX番号、⑥メールアドレス(所有の場合)を明記の上、下記住所までお送り下さい。 
※一通につき1名様。往復はがき以外の申し込みは無効です。
○当選した方には参加証、案内書(詳細についてはその都度ご案内)をお送りします。
[申込先] 〒248-0014 鎌倉市由比ガ浜4-1-1
NPO法人 鎌倉ガイド協会 「祭・食」PART6係
[問合せ] 9:30~15:30(休日:第2土曜日) TEL:0467-24-6548 FAX:0467-24-6523


2018.05.30

満員御礼
6月Cコース特別企画(金沢八景浮世絵に鎌倉ゆかりの地を巡る)の実施日6月5日(火)は、応募申込多数につき、恐れ入りますが、締め切らせて頂きます。
できれば、実施日6月8日(金)の方にお申込み下さい。
ご迷惑をおかけしますが、何卒よろしくお願い申し上げます。


2018.05.01

15日、30日の5月特別企画は既に定員を超しましたので、
締め切らせて頂きました。ご了解の程をお願い致します。
なお、、全く同様の内容にて、下記コースを29日に新設いたしますので、
お申込いただきますようご案内致します。

実施日  5月29日(火)
集合場所 湘南モノレール大船駅改札裏側広場
コース名 「引き潮の海の道より江ノ島を仰ぐ」                 
     ~中津宮特別昇殿及び岩本楼特別見学~
コース  湘南モノレール大船駅=(モノレール)=湘南江ノ島駅
     片瀬海岸東浜~(島前まで徒歩)~江ノ島弁天橋~
     岩本楼特別見学~岩本楼ビーチ(昼食)~福石・道標~
     辺津宮~奉安殿(弁財天拝観)~中津宮(特別昇殿)~
     奥津宮~杉山検校の墓~青銅の鳥居(解散)15時30分頃
費 用  1000円(参加費500円+初穂料500円)
申込方法 ハガキ・FAXまたはメール(協会のホームページ)にて
     参加希望日、氏名、住所、電話番号、ご同伴者を明記の上
     お申込下さい。、
申込締切 5月22日(火)、但し定員の150名になり次第
     申込みを締切らさせていただきます。
持ち物  弁当・飲物・雨具・敷物
雨の場合 台風などの悪天候以外は実施いたします。
      但し、状況によってはコース変更致します。 以上


2018.04.20

満員御礼
5月特別企画Cコース「引き潮の海の道より江ノ島を仰ぐ」(実施日5月15日(火)/30日(水))は、定員に達しましたので、申し込みを締め切りました。ありがとうございました。


2018.03.21


平成30年2月10日定例研修会が開催されました。テーマは「『早雲と一族、百年の攻防』、講師は鎌倉ガイド協会会員の山田光利さんです。
1、 北条早雲の出自・・五つの説
北条早雲の出自は①山城宇治説②大和在原説③伊勢素浪人説④京都伊勢氏説⑤備中伊勢氏説の五つがあるが①②については「北条五代記」に「新九郎、後に北条早雲宗瑞と改号す、住国は山城宇治の人也。又一説には大和在原ともあり」と記されていることによる。③の説は明治中頃に発見された「小笠原文書」による「早雲の先祖は伊勢の関の野武士せがれ」と解釈できる文書があり定説となった。④の説は室町幕府の政所執事を務めた京都伊勢氏とするもので、伊勢貞親の弟貞藤の子が早雲である。⑤の説は「別本今川記」「浦庵太閤記」により備中伊勢氏の出身であることが分かる。
しかし、備中伊勢氏が京都伊勢氏にどうつながるかを藤井駿氏が「法泉寺古文書」を駆使し、在原荘半分の領主伊勢新九郎盛時こそ北条早雲であるとした。また、「長録2年以来甲次記」に伊勢新九郎盛時、文明15年10月11日被召加之 備中守貞定息也とあることにより、室町幕府の甲次衆に抜擢されていた。さらに立木望隆氏は早雲を備中高越山城主伊勢盛定の子としている。
次に伊勢新九郎盛時と北条早雲の伊勢新九郎が同一人であるかどうか。早雲没後無遮会で禅僧芳琳乾幢が読んだ祭文に「出入相府」という一文がある。これを幕府に出入りしていたと解釈すると、幕府の甲次衆になっていた備中出自の伊勢新九郎盛時の履歴と符合する。「続群書類従」の伊勢系図によると盛時が貞高の養子になり、氏茂と改名したことが記載されている。その後足利義視の近士になったものであろう。「北野社家日記」には延得三年(1491)8月10日 今川龍王丸宛幕府奉行人奉書によると末尾に「此御下知者伊勢新九郎方へ同名右京亮以調法下之也」の1行が書き加えてあり、今川氏のもとにいた伊勢新九郎(早雲)が今川氏親を動かし、幕府奉書の遵行に便宜を図られる地位にいたという事が明らかになり、右京亮は伊勢右京亮貞遠の事なので、京都で甲次衆として活躍していた伊勢新九郎盛時と今川氏のもとにいた伊勢新九郎即ち早雲は同一人であることは確実となる。
しかし、文明八年(1476)今川義忠死後の家督争いに際し龍王丸の成人まで小鹿範満に家督を代行させるという折衷案を提示して争いを納めて以降、駿河側の資料から伊勢新九郎の名は見えなくなり、文明一五年(1483)甲次衆として出て来る。そして、文明一九年4月14日の条に「甲次伊勢新九郎」とあるのが最後に京都側の資料から消える。その年11月9日に早雲による駿河今川館の小鹿範満襲撃が有る。このことも同一人であることを証明する材料である。
2、 北条五代の人となり
1)一代 伊勢新九郎宗瑞
「名将言行録」「北条記」によると早雲が7人の仲間に諮り皆と共に東に下り功名を建てたいと野望を持って関東にやって来た。その足跡は伊豆乱入、足利茶々丸の討滅、大森藤頼をだまし討ちにして小田原城奪取、三浦一族を追い込み滅ぼすなど、謀と奸を地で言ったように見えるが、国人土豪の不満を吸収し彼らの要求を満たす男と早雲は見られていた。政治家としての類まれな資質を持っており、人心を掌握すべき情報力と方法論を持っていたからこそ、土豪たちが早雲に連帯感を持ち、次代の主として認められた。早雲の遺訓に「上下万民に対し一言半句も虚言を申すべからず、虚言いいつくれば、癖になり、人に見限られるべし」とあるが、早雲にとって戦と日常は違い、一国の主として万民から慕われた男の側面が現れている。
「五公五民」から「四公六民」に変え領地を安定させた。早雲は30代半ばで応仁の乱に出遭い地獄を見て無常観を引きずっていたのではないか。妹北側殿に招かれ38歳で駿河に下向するが厭世の故の旅ではなかったか、そして甥の龍王丸に献身的に仕えているが、京都・伊勢に度々帰っている。これは、伊勢一族との決別と京都に妻子がいて妻子の事が頭にあったからではないか。野望一辺倒の男ではなく無常観と愛情を持った男として浮かび上がってくる。悪党か英雄かという二つの顔で評される早雲像は二つの矛盾した生き様の表象でもある。
「今川家の軍師、西関東に覇を唱える」
早雲が仕えた足利義視は8代将軍足利義政の実弟で次期将軍候補として迎えられたが、義政に善尚が誕生したことから後継者争いとなり、応仁の乱への一つの引き金となった。義視に仕えていた早雲も義視に従い伊勢に落ちている。その後義視は京へ戻れることになったが早雲の姿はなかった。妹今川義忠夫人からの誘いがあったと思われる。今川義忠は応仁の乱以降、遠江に出陣凱旋途中最期を遂げる。跡目相続が勃発、今川家の家督相続は注目の的で、早雲は対立している中に割って入り龍王丸が元服するまで義忠の従兄弟の小鹿範満に家督代行をしてもらう事で収めた。ここで早雲は京に上り文明一五年(1483)~長亨元年(1487)まで幕府内の役職「甲次衆」を勤めていた。1479年から4年の間は「玉隠和尚語録」によると建仁寺で優游したと記されている。今川家では龍王丸が17歳になっても小鹿範満から家督を返さず、北川殿は早雲に相談、早雲は小鹿範満を討ち、龍王丸は元服し氏親を名乗る。この時の恩賞として早雲に興国寺城が与えられている。この時期に熊野那智大社「米良文書」に打渡状の写しが納められており署名は盛時となっていた。これこそ伊勢新九郎盛時であり、打渡状は守護代が出すのが通例なので駿河守護代の地位にあったと考える。この頃、伊豆には堀越公方と称した足利政知がおり、政知死後、先妻の子茶々丸と後妻の子潤童子、清晃との間に「豆州騒動」が起こり、茶々丸が2代目堀越公方となる。早雲は好機到来とみて堀越御所を襲い茶々丸殺害伊豆を奪取した。その後扇谷上杉と山内上杉の抗争の中で上杉顕定の領国を奪った。伊豆を平定すると、西相模への進出を具体化するが、小田原城を守っている大森氏頼はなかなかの人物なので、氏頼の死後、後継者の藤頼に接近、好を通じ、気を許させ、勢子に化けた早雲の一隊が小田原城の裏山から攻め落とした。   
早雲は今川軍の先鋒として遠江、三河に軍事行動を繰り返している。両上杉の抗争の間隙を縫って伊豆、西相模に進出したが、権現山城では両上杉に手を結ばれ敗戦し三浦氏の討滅に的を絞った。
扇谷上杉の重臣で相模最大の勢力を持つ三浦氏は当主義同、法名を導寸と言い、相模国中央部から東部を勢力とした武将である。永正九年(1512)本拠地岡崎城を急襲、三浦軍は住吉城へ逃れ、さらに新井城へと逃れた。早雲は深追いせず鎌倉にて和歌を詠んでいる。「枯るる樹に 又花の木を 植え添えて もとの都に 成してこそみめ」
三浦半島を抑えるために玉縄城を築かせ、永正三年(1516)新井城を攻め義同・義意父子は自刃した。相模全土を平定したこの時早雲85歳2年後に家督を譲り翌年に韮山城で息を引き取った。法名「早雲寺殿天岳宗瑞」 箱根湯元の早雲寺に墓所がある。
2)「北条家を発展させた男」 二代 北条氏綱
「小田原日記」によると、氏綱は父の後を良く守って後嗣としての功が有ったとある。早雲の遺訓を守り、武蔵江戸城攻略を始め合戦が多かった。領国拡大に伴い支城を築き、奉行衆や評定衆を組織立てた。氏綱は父死後3年で小田原に本拠を移し「相州大守北条新九郎氏綱」と名乗る。
また二代目としての大事業、鶴岡八幡宮の再興造営を行った。再興事業が10年近い歳月と近在からの動員や基金を求めなければならず、神仏を尊ぶ信仰心と鎌倉時代執権北条氏への回帰。氏綱の滾りない美意識の情念が造営へと向かわせた。
氏綱は遺言状の中で「合戦とは勝たねばならないものである。しかしだからと言ってどんな卑怯な手段を使ってもいいという事にはならない」、と氏綱の人物が透けて見える。
「氏綱 関東管領への挑戦」
宗瑞が韮山城で没すると氏綱は盛大な葬儀を執り行い父の威徳を偲ぶ。当主交代時の検地を実施。上杉をバックアップする古河公方足利高基に接近、高基の子晴氏の妻に娘を送り込む約束をして、上杉方の重臣を離反させ、北条方に内応させる。江戸城には扇谷上杉朝興がいて、家老に太田資高兄弟がいたが氏綱は太田資高を寝返らせ、江戸城を攻略。朝興は板橋城さらに河越城に敗走した。氏綱は小田原城を中心に韮山城、玉縄城、小机城、江戸城という支城を完成させた。この江戸城奪取により関東に政権を確立し、河越城を手中に収めたことにより、関東管領をも奪取したことを意味する。大永六年(1526)焼失した八幡宮の造営は氏綱個人ではなく、関東中の有力武将の参加のもと行う形となった。氏綱は造営工事が完成した天文十年(1541)に病没した55歳であった。
「北条姓襲名の真相」
北条氏のもともとの姓は伊勢氏である。二代目氏綱も大永三年(1523)箱根神社再建棟札に「伊勢平氏綱」と自書している。ところが大永四年11月には「北条氏綱」と自書し、その後は伊勢姓を名乗った形跡はない。山内・扇谷上杉氏が代々関東管領職にあり、上杉氏に代わるためには、国人・土豪層が納得できるように、上杉体制継続の正当性を北条氏への改姓により切り抜けようとした。
鎌倉時代の北条氏は執権職であり、関東管領職にあたる。管領は副将軍に当たる。幕府将軍の代行者として関東を統治する権力を保持する。しかも北条時房が武蔵守に任ぜられ、北条一門が相模守になっているので、相模・武蔵統治には北条一門の後継者であることで正当性が成り立っているのである。氏綱は大永二年(1522)古河公方足利高基の子晴氏に自分の娘を正妻として送り込み足利一門と血縁関係を結んでから大永4年上杉朝興を攻めた。また確証はないが鎌倉北条氏の末孫の娘がいて、その娘を氏綱が妻とし、北条姓に改めたという説もある。北条姓に改姓し家紋も二等辺三角形の三つ鱗に改めた。
3)「勝って自重を求めた思慮の男」 三代 北条氏康
「文武を兼ね備えた名将」「和漢の才人を集め」歌の会をあり・・とも書かれている。一方戦国大名としても着々とやり遂げている。相模・武蔵の検地を始め、安房で里見勢、駿河で今川勢、「河越夜討ち」と武人の誉も高い。武田・今川と手を結んだり、上杉謙信・武田信玄・今川義元等天下取りを策す武将の中で渡り合いながら着々と領土を広げ関八州を手中に収め北条氏黄金時代を築いた。
氏康は13人の子宝に恵まれ、男兄弟が7人いるが身内の騒動が無かった、氏政・氏照・氏邦・氏規・氏忠・氏尭・氏秀まで7人の母が今川氏親の娘(瑞渓院)から生まれていたからであろう。
「氏康の教訓」
氏康が隠居した後、氏政に語った話が「武将感情記」に載っている。「将が家来を選ぶのは当たり前の事、家来が主を選ぶ時もある。家来や民を大切にするのは将の務めであり、重臣にも任せる事でない。決して下の者の功労をなおざりにしてはいけない」と教訓した。氏康の誠実な人柄と「早雲寺殿21箇条」や「氏綱公御書置」という祖父の教えを氏康が踏襲していた。氏康は元亀2年(1571)10月3日中風により世を去る。内政外交ともバランスの取れた稀代の武将は57才で生涯を閉じた。墓所は早雲寺。
4)「深謀遠慮の資質に隠された豪胆な男」 四代 北条氏政
家督を譲られた後も氏康が実権を握っていた節もあり、影が薄く、愚直と見られていた。この時代氏康、今川義元・武田信玄・上杉謙信といった巨星が落ち、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の時代の到来の転換期であった。氏政は戦いの巧みさは引けを取っていないが、弟氏照を指揮官として活躍させた。氏照は好戦家であるが、氏政は氏照の資質を見抜いていた。また戦略的には的確な指示を与えている。氏照が剛毅直情怪行なら氏政は深謀遠慮の資質で二人三脚ぶりは見事であった。氏政のエピソードとして武田信玄の娘と結婚したが離縁をしなくてはならない折丁重に送り届け、その後早死にしたことを不憫に思い早雲寺のすぐ傍らに墓を建てた。氏政が家督を継いだ年は関東一帯が凶作に見舞われ、農民の訴訟や要求が出されるようになり、農民は要求が満たされないと「欠落」つまり逃亡するので、農民を連れ戻す煩雑なことが多くなった。一方で一度も侵攻されなかった小田原城が上杉謙信・武田信玄に侵攻された。
5)「天下の情勢を誤った悲運の将」 五代 北条氏直
氏直は時代の趨勢を読み切れなかった。小田原城籠城作戦も秀吉の島津征服戦から豊臣軍の実態を学んでいない。しかし北条氏が立たされた位置を正確に把握し一族の存続に向けて模索していた。徳川・伊達・後北条が手を結び豊臣と対抗のため三国同盟の実現を画策した。徳川とは督姫との婚姻政策、伊達とは家臣遠藤氏にあてた文書により動向が明らかであり、一旦は成立をみたが、徳川が北条に見切りをつけ、伊達も追従し破たんする。秀吉とも外交折衝により戦争回避を試みていた。北条内部では主戦派が氏政・氏照、上洛による穏健派が氏規と分かれていた。氏直は穏健派であったが氏政らの強硬論に押され秀吉との対決を迎えた。氏直は自分なりの視点で時代を見極めていたが、秀吉の急成長についていけなかった。秀吉の軍勢に小田原城を取り囲まれ激戦となり氏直は敗戦を覚悟した。一族・家臣の助命、自刃を申し出でたが、秀吉は主戦派の氏政・氏照に切腹を申し渡した。氏直は当主である自分が「助命・蟄居」となり屈辱感で狂わんばかりであったであろう。高野山に幽閉されほどなく30代になったばかりの若さで病死している。
3、 「関八州独立国家構想」
北条氏は天下取りの野心はなく、伊達政宗・徳川家康との三者同盟による東日本独立権の確立を目指した。西日本は秀吉、東海は家康、奥州は政宗、関東は北条氏が支配をする。北条は家康とも正宗とも誼があるので主導して行けば三者同盟も夢ではないと考えた。しかし、家康が秀吉に臣下の礼を取ったことにより崩れ、秀吉は東国攻略の目標を北条氏と政宗に向けた。北条氏は小田原城籠城に自信があったことと、政宗と結べば秀吉の大群を撃退できると甘い読みがあった。
北条の関八州独立国家構想と政宗の天下取りの野望が反秀吉で一致しこの頃小田原と仙台で頻繁に連絡を取り合っていたと「伊達天正日記」には記述がある。
後詰を政宗に期待して北条氏は籠城を選んだ。秀吉が諸大名に小田原の出陣を命じたのは天正一七年11月、他の東北の大名は小田原にはせ参じたが、政宗が小田原に着陣したのは小田原落城の1ケ月前の事であった。政宗の逡巡により遅参したが、政宗の参陣により北条・伊達連合は水泡に帰したのである。
北条五代百年は東国独立構想を夢に描いていた。関東は中央とは一線を画す精神的風土があり、地勢的に箱根山は東西に分ける経済・流通の分岐点である。また、この時代は単一国家成立の道がまだ拓かれていないので分割国家の成立が可能であった。このことが独立意識を支えた。
早雲の精神を受け継ぎ、氏綱は領土を広げ、氏康の代に内政の充実があり、構想は着々進行していたようであるが、しかし、政治的な甘さ、体質の非力が見て取れる。それを百年の成熟とも言えるのかもしれない。
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小田原北条氏は近くて遠い存在でした。早雲一族の出自から5代の人となり、100年間を講義して頂き、今までの記憶と違ったものになりました。特に、伊勢新九郎宗瑞の万民から慕われた男、好機到来を待って仕掛ける男、100年の基礎を作った早雲の人間性に触れられ、有意義な講義有難うございました。(森川節子速記)


2018.02.22


平成30年1月13日(土)定例研修会がありました。「テーマは『祈り・願い・詠い続け 望郷の思いで過ごした 阿仏尼の鎌倉』」です。講師は鎌倉ガイド協会会員の筒木輝子さんです。
阿仏尼のプロフィール
阿仏尼は嘉禄2年(1226)ころ生まれ、俗字の名は知られていない。14歳で後高倉院の皇女安嘉門院邦子内親王に仕え、安嘉門院四条と呼ばれた。17歳で失恋し出家、見習い尼となり、奈良の法華寺に入る。ここで恋をして子供を産み法華寺にいられなくなる。法華寺の慈善尼が藤原為家の娘為子を紹介した。藤原為家は藤原定家の息子で御子左家の当主であった。為家は宇都宮頼綱の娘を妻として、嫡男為氏ら数人の子女を儲けていたが離別している。
しばらくして、阿仏尼と為家は恋愛関係に入る。為家は阿仏尼と出会った3年後、康元元年(1256)に出家し融覚と名乗っていた。阿仏尼は翌年後妻となり、定覚・為相・為守の三人の子をもうけ、為家が78歳で亡くなるまで、23年間和歌の仕事で為家を支えた。
阿仏尼と訴訟
為家は重要な荘園として播磨国細川荘・近江国吉冨荘・播磨国越部荘を持ち、為家は嫡男為氏に譲った。しかし、為家は「悔い返し」という制度を利用して細川荘を取りもどし、為相に与える譲り状を書いて亡くなった。家伝の和歌・文書の典籍類も為相に与えるとした。阿仏尼(御坊)あてにも為家が亡くなる7年前に同じ内容の譲り状を送っていた。しかし、為氏は歌道家二条家の存亡の危機を感じ、細川荘を阿仏尼に渡そうとしなかった。
阿仏尼は後家として夫の代行者として家業の継承を行い、所領争いの時は裁判の当事者となった。また訴訟の為下向する女性の旅は他にも例があり、藤原俊成の孫娘が泰時に直訴し願いが叶っていた。
阿仏尼は夫為家の遺言「道を助けよ 子を育め 後の世を問へ」を受け、為相が歌道家を創立し、歌道を盛り立てる事が可能なように、為家が亡くなって4年後に訴訟の為、鎌倉に下向する。
当時の訴訟では問注所に訴えが出され、調査・資料収集が行われ、内容の確認を3回行う、その後、本人に直接審問を行う。判決の内容を頭人・引付衆・奉行人で吟味し、評定衆の合議のうえ判断が下される。又再審請求も可能であった。
阿仏尼の下向は経済力を持つ安嘉門院の援助で出で立ちは豪華であった。京都から鎌倉に旅をすることは当時異界におもむく一大決心であり、弘安二年(1279)10月16日出立し、鎌倉に着いたのは、10月29日のことであった。
阿仏尼の訴訟の勝算
阿仏尼は為家の弟子である飛鳥井雅有が鎌倉にいたこと、雅有の母は北条実時の娘であり、雅有の妻は引付衆の頭人である顕時の妹であったので心強く思っていた。しかし元寇の時期であったことや訴訟相手の藤原為氏の祖父が宇都宮頼綱であったこと等、訴訟は進まなかった。宇都宮頼綱は宇都宮歌壇を起こした人物で、その子宇都宮泰綱は評定衆の一員であった。審議の遅れに何らかの影響はあったと思われる。正応二年(1289)に第一回の判決で冷泉為相が勝訴したが、為氏の子二条為世により異議申し立てが行われた。正応四年(1291)二条為世勝訴、冷泉為相が越訴を行い最終的に為相が勝訴したのは阿仏尼の死後34年后の正和二年(1313)為相51歳のときであった。
阿仏尼の鎌倉での住まい
阿仏尼は鎌倉での足掛け4年の間に何度か住まいを変えている。
1 極楽寺 十六夜日記の冒頭『東にて住むところは、月影の谷とぞいふなる。・・・・』とある。忍性は叡尊の弟子であり、阿仏尼の姉の夫は出家し叡尊と同門の律僧であった。また法華寺が西大寺叡尊のもとで尼寺として復興していた。そして忍性が極楽寺におり、極楽寺を頼ったのであろう。
2 常栄寺 常栄寺の縁起には阿仏尼屋敷跡とあり、江戸時代に書かれた「阿仏東下り」には『比企の谷という所に、親しき人のありければ、・・・・』と、また十六夜日記には『しのびねは ひきのやつなる ほととぎす くもいにたかく いつかなのらん』とあるので常栄寺近くに滞在したかもしれない。
3 亀ヶ谷 十六夜日記によると、弘安三年の秋が過ぎたころ亀ヶ谷に転居している。また新編鎌倉志によると亀ヶ谷に阿仏尼卵塔屋敷の記載があり、阿仏尼邸があったとも伝えられている。
歌人阿仏尼
阿仏尼下向の三年前、北条時宗の企画に『現存36人詩歌』の屏風絵が描かれている。その中に女流歌人が7名おるが、その一人に阿仏尼の姿が描かれており、次の歌がある。
『うぐいすも ものうからでや 吹く風の 枝をならさぬ 花になくらん』
このことから、為家の妻としてだけでなく歌人阿仏尼としても敬愛されていたことが分かる。
また、安嘉門院四条500首は鎌倉で詠んだ500首を関東の5社に奉納し勝訴を祈願している。①今熊野②えがらの宮③新加茂の社④新日枝の社⑤鹿嶋の社。また、鎌倉へ下向途中に奉納した⑥三嶋社⑦走湯山⑧箱根宮。そして、鎌倉に着いてから奉納した⑨若宮⑩稲荷社と1000首奉納している。
鎌倉在住の間、阿仏尼は鎌倉武士に和歌の指導を行い、歌道家の基礎を築き、訴訟の為、問注所に通った。訴訟の歳月を振り返り『ふるさとの 人に見せばや 黒髪に 年も重なる 霜のしろさを』を詠んでいた。
宇都宮頼綱について
宇都宮氏は下野国宇都宮で守護職を務め、鎌倉の屋敷が宇都宮辻子にあり、宇都宮頼綱は娘を為家に嫁がせていた。頼綱は元久二年(1205)畠山重忠の乱に加担した北条時政に連座して京に追放され、出家して蓮生と名乗り嵯峨野の小倉山麓に庵を設け隠遁した。小倉山麓には藤原定家の別邸もあり、貧窮に嘆く定家にとって財力のある蓮生法師は魅力的であり、蓮生法師にとっては御子左家と親戚関係になることは名誉なことであった。蓮生の小倉山麓の庵には定家が選定した、和歌を襖絵に飾っている。のちの百人一首である。
阿仏尼の供養塔
阿仏尼は弘安六年(1283)4月8日に亡くなったと言われている。亀ケ谷には安山岩の六重の塔がある。阿仏尼が没したのは京か、鎌倉か両説ある。京都には実朝の妻本覚尼(坊門信清の娘)が住んだ大通寺に墓がある。
次のような、望郷の歌が残されているので鎌倉で没したと思われる。
『いつの日か 都の空を それとみて 渡り帰らん 瀬田の長橋』
為相のプロフィール
為相は父為家が没した時は13歳、阿仏尼が下向した時は17歳であった。為家が没した後の御子左家は二条・京極・冷泉と分裂し、冷泉家の当主為相は訴訟中で経済的に苦しく京都で歌道家として立つには力が無かったので、阿仏尼没後、阿仏尼の築いた鎌倉に下向し、鎌倉武士に和歌の指導を行った。鎌倉で幕府将軍や要人の和歌指導者として地位を得た。また、娘は将軍久明親王の側室となり久良が誕生した。為相は京都と鎌倉を往還し、京では京極家と連携しつつ冷泉家の礎を固め、鎌倉では和歌指導家として最も大きな存在となり、「藤谷黄門」と呼ばれた。
浄光明寺の裏山のやぐらには正和二年造の地蔵像がある。門前の石碑によると正和二年は為相が訴訟に勝訴した年であり、為相が奉った地蔵像であると書かれている。
為相は永仁三年(1295)鎌倉に下向し、嘉暦三年(1328)没した。為相の墓は浄光明寺のやぐらの一段高い所に宝篋印塔があり「月厳寺殿玄国昌久」と彫られているが今は確認できない。
その後の三家
二条家は為氏・為世以下御子左家嫡流として勅撰集を撰進したが南北朝期の動乱で衰亡し血統は途絶えた。京極家は為兼の代で後継者がなく断絶した。冷泉家は和歌の家として権威を持ち続けていった。  
為相は阿仏尼が基盤を築いた鎌倉で和歌の道を拡げ歌道の道を存続させた。しかし京都での邸宅は御所北側の外であり、明治維新でも京都に留め置かれた。結果として、関東大震災や東京空襲などの戦火から逃れ、為家から引き継いだ和歌・文書などがそのまま残された。また、邸宅も貴重な公家の家として重要文化財となった。このことは阿仏尼がひたむきに行動したことへの天の思し召しと思えてならない。
最后に阿仏尼晩年の歌
『聞き残し 見残すことも あらじかし むそぢの夢の あかつきの鐘』
阿仏尼は完全燃焼して生き切ったことを感じます。
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筒木ガイドを私は「ガイド協会の歌姫」と思っております。ガイド中にソフトな声で31文字を詠います。
和歌に親しんでおられることが、本日の阿仏尼の講義に繋がっているのではないでしょうか。阿仏尼を深く知ることができました。講義有難うございました。(森川節子速記録)


2017.12.25


鎌倉市教養センター主催の文化祭が、平成29年10月22日(日)に行われました。文化祭の公開講座において、『「鎌倉と夏目漱石―参禅百年記念碑をめぐる人々―」と題して』鎌倉ガイド協会会員関谷哲雄さんが講演をいたしました。(以下は要旨です。)
はじめに
北鎌倉の東慶寺山門前に「夏目漱石参禅百年記念碑」がある。漱石は明治37年の年末から38年初めにかけて、円覚寺の帰源院に止宿し釈宗演のもとに参禅した。それから十数年後、大正元年9月、漱石は親友中村是公とともに、東慶寺に移っていた宗演老師を訪ねた。この日の訪問を仲介したのは、漱石が信頼し兄事した菅虎雄である。
漱石は、この日の出来事を「初秋の一日」として書き残し、その一節は「夏目漱石参禅百年記念碑」に刻まれた。
1、 中村是公との出会い
明治17年、夏目金之助(当時は塩原金之助)18歳(数え年)で大学予備門(後の第一高等学校)に入学し、生涯の親友となる中村是公(当時は柴野是公)と出会う。 
二人は末富屋という下宿屋にいて十人程が一緒でした。そして、彼らは勉強を軽蔑するのが天職であるが如くに心得ていた。明治18年夏、末富屋の仲間7人と会費10銭の江の島徒歩遠足を行った。三食分の握り飯を持ち未明に末富屋を出発、片瀬の海岸で野宿をした。翌朝、江の島へ渡ろうとするが海が広がり、渡る道が分らない。渡し人足がいるが銭がなく、1人だけ人足に背負ってもらい、他の者はその後を歩くこととした。すると金之助が真っ先に「俺が負ぶさる」と言って背負われた。そこらへんは素早い男だったと同行した太田達人は書き残している。
端艇競漕(ボートレース)などは好んで行った。当時のボートはハイカラなスポーツだった。金之助たちは黒い帽子をかぶり、友人たちと「ブラック・クラブ」というグループを作ってボートを漕いでは、むやみに牛肉を喰っていた。そして、メンバーの成績は級の尻の方に塊まっていった。
明治19年 金之助は、予科二級を落第した。腹膜炎で試験を受けられなかったためである。是公は、点数が足りなく落第した。追試を認められなかった金之助は、日頃の行いに問題があったと反省し、是公と二人で下宿をでた。そして、宿舎付き私塾教師として月給5円二畳敷きでの共同生活をはじめた。金之助は英語で地理書と幾何学を教え、そこから予備門に通った。成績は以後首席を通したという。しかし、是公との共同生活は金之助が眼病を病み1年ほどで終わった。
明治20年、この年、長兄大助、次兄直則があいついで死亡した。金之助に冷たかった父直克も夏目家の将来を心配しだし、明治21年1月、金之助は「塩原」から「夏目」に復籍した。夏目金之助は、この年、本科一部(文科)に進み英文学を学ぶことにした。
明治22年4月、中村是公は、帝大の招待ボートレースで優勝した。その時、学校から若干の金をもらった中村は、貴様の好なものを買ってやると金之助に云った。金之助は沙翁のハムレットを買ってもらった。その時初めてハムレットを読んだがさっぱり分からなかったと後に書いている。
5月 金之助は、正岡子規の漢詩文集「七草集」の書評に初めて「漱石」の名を使う。この夏、夏目漱石は房州旅行をして漢詩紀行文「木屑録(ぼくせきろく)」を書き、子規の称賛をうけた。
2、菅虎雄との出会い
漱石は、明治23年9月 帝国大学文科大学英文科の唯一の学生として入学した。菅虎雄は、文科大学独逸文学科の3年生であった。当時、文科大学は、3学年を合わせても30名程度であった。この時、文科大学の学生を会員とする親睦会・勉強会として紀元会が結成され、漱石は、子規らと入会した。狩野亨吉が会長、菅虎雄は副会長であった。漱石と虎雄はこのような勉強会や懇親会を通して親しくなったと思われる。漱石は虎雄を信頼し兄事した。そして、大学を出た後も、就職、家探し、その他もろもろ、世話を受けることになる。
明治26年、漱石は大学院に進学した。大学では特待生にもなり英語の使い手としての名声は高かった。そして、東京高等師範学校嘱託、東京専門学校講師となった。しかし、心の中では葛藤が渦巻いていた。
明治27年7月、正岡子規に「理性と感情の戦争益劇しく、恰も虚空につるし上げられたる人間の如くにて、・・・・」という手紙を書いている。漱石は後に「大学で英文学という専門をやりました。三年勉強して、ついに文学は解らずじまいだったのです」。そして、教師になったが、「自分の職業としている教師というものに少しも興味を持ちえないのです」と不安と葛藤を述べている。あるいは許されざる恋愛に悩んでいたとの説もある。
漱石は、7月、伊香保温泉、8月、松島、湘南の海岸と漂泊の末、大学の寄宿舎を出て菅虎雄宅に寄宿した。そして、10月、虎雄を驚かせるようなことがあり漢詩の書置きを残して突然飛び出した。その後、虎雄の紹介で法蔵院(小石川)に居住した。
3、釈宗演に参禅
漱石は、虎雄の紹介で、明治27年の12月23日から翌年1月7日まで円覚寺帰源院に止宿して釈宗演老師に参禅した。虎雄は宗演の師、今北洪川に参禅し「無為」の居士号を頂いていた。夏目漱石28歳、釈宗演36歳で円覚寺管長であった。
老師は、安政6年(1859)12月 若狭高浜の一瀬家に生まれ、12歳のとき妙心寺天授院で得度。明治11年(20歳)円覚寺の今北洪川に参禅し、25歳のとき印可を得る。その後、円覚寺塔頭仏日庵に住した。そして、師の反対を押し切って、慶応義塾で洋学を学ぶ。明治25年(34歳)円覚寺管長。明治26年、シカゴで開催された万国宗教大会に出席、『仏教伝通概論』を発表した。これは禅の西欧へ布教の嚆矢であった。漱石が参禅したのは、その翌年のことである。 
漱石の参禅の様子は、小説「門」の主人公 野中宗助の参禅によく描かれている。主人公宗助は、親友であった安井を裏切って、その妻である御米と結婚したが、その罪悪感から二人は東京でひっそりと暮らしていた。しかし、ある時、安井の消息を聞いて心の安定を乱し、救いを求めて、知人の紹介で鎌倉に参禅する。
「山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空を遮っているために、路が急に暗くなった。その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急に覚った。」宗助は、一窓庵(帰源院)で若い僧宜道(釈宗活)の世話になる。そして、老師(釈宗演)に相見し公案を頂く。その時の老師の印象を「宗助が始めてその視線に接した時は、暗中に卒然として白刃を見る思があった。」と書いている。「まあ何から入っても同じであるが」と老師は宗助に向って云った。「父母未生以前本来の面目は何だか、それを一つ考えてみたら善かろう。」 宗助は、座禅をし、公案を考えた。そして、再び宜道につれられ老師のもとに向かった。「この(老師)面前に気力なく坐った宗助の、口にした言葉はただ一句で尽きた。『もっと、ぎろりとした所を持って来なければ駄目だ』と忽ち云われた。『その位な事は少し学問をしたものなら誰でも云える』宗助は喪家の犬の如く室中を退いた。後に鈴を振る音が烈しく響いた。」
 宗助は、悟を開くことなく下山することになった。「『少しでも手掛りが出来てからだと、帰ったあとも楽だけれども。惜い事で』宗助は老師のこの挨拶に対して、丁寧に礼を述べて、又十日前に潜った山門を出た。甍を圧する杉の色が、冬を封じて黒く彼の後に聳(そび)えた。」 
4、松山と熊本
明治28年、漱石(29歳)は菅虎雄の紹介で、松山へ。後に小説「坊ちゃん」を生むことになる。松山では、中学の英語教師をしながら、俳句に精進し数々の佳作を残している。しかし、漱石はすぐに松山を出たいと虎雄に訴え始めた。虎雄は、この年10月より第五高等学校(五高)の教授となっていた。たまたま五高に英語教員の空ができ、漱石を熊本に呼んだ。
明治29年4月、漱石は五高の講師として熊本へ赴任した。五高で詠んだ漱石の句が残っている。「いかめしき門を這入れば蕎麦の花」当時、五高は開校したばかりであった。6月に中根鏡子と結婚する。漱石は、鏡子との新居に移るが、それまでは菅虎雄の家に寄宿していた。7月には教授に就任した。こうして、週20時間以上の英語の授業をし、俳句にも励む4年3カ月におよぶ熊本の生活が始まった。俳句は生涯詠んだ約2400句の約4割は熊本で詠まれた。
明治30年 虎雄は、肺結核をやみ1,2月の相当日数を欠勤した。漱石は、春休みに久留米に帰郷し静養していた虎雄を訪ねた。そして、その足で高来山に登る。「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」という小説「草枕」の冒頭にある山路はこの時の山行と云われる。
虎雄は、一旦は回復したが再発し、8月には五高を非職となり、茅ヶ崎の療養所に入った。
6月、父直克が死去。漱石は、期末試験を済ませると早々に鏡子と上京した。鏡子は長旅のせいで流産してしまい鎌倉の材木座で静養することになった。鏡子の実家中根家は、親戚にあたる大木伯爵の材木座の別荘を借りて夏を過ごしていた。漱石は、大木別荘の近くの河内屋別荘の一室を借りて東京と鎌倉を行き来した。河内屋は材木座3丁目あたりで現在も外観は当時のままにある。
9月初旬 漱石は熊本に帰る前、帰源院に釈宗活を訪ねた。その時詠まれた句「仏性は白き桔梗にこそあらめ」は、後に帰源院境内の石碑に刻まれた。
明治33年9月、漱石は英国留学へ旅立った。そして「もっとも不愉快の二年」を過ごし、明治36年1月英国留学から帰国するが、熊本に戻りたくなかった漱石は、狩野亨吉(当時、一高校長)らの力添えで帝大講師、一高嘱託となり東京に居を構えることになった。
菅虎雄は、この時には病気が癒え一高教授となっていて、漱石の東京での家探しや家財道具の調達に奔走している。この時、借りた家で「吾輩は猫である」など初期の作品が書かれた。
明治40年2月、漱石は一切の教職を辞し、4月、朝日新聞社に入社して本格的に職業作家としての道を歩み始めた。
5.漱石、是公再会
明治42年 作家夏目漱石は、南満州鉄道(満鉄)総裁となった中村是公と再会する。
中村是公は、帝大法科を卒業後、大蔵官僚となり明治29年には台湾総督府の民生局事務官として台湾に赴任し、以後外地に勤務した。明治41年12月に満鉄総裁となり、明治42年の正月は日本で過ごした。是公は大連に戻る直前、漱石に連絡を取ったが、この時は都合がつかず会えなかった。漱石は、当時朝日新聞に掲載中の「永日小品」に「昔の中村は満鉄の総裁になった。昔の自分は小説家になった。満鉄の総裁とはどんな事をするものかまるで知らない。中村も自分の小説をいまだかって一頁も読んだ事はなかろう」と書いた。
是公が漱石を訪ね再会したのはこの年の7月であった。そして、9月から10月にかけて、漱石は、満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行した。この旅行の記録は朝日新聞に「満韓ところどころ」として連載された。
漱石が日本に帰って10日後、ハルピンで伊藤博文の暗殺事件が起こった。是公は、伊藤公に同行していて事件に遭遇した。是公に怪我はなかったが外套に貫通弾痕があったという。
漱石は満洲に旅行した頃からしばしば胃の不調を訴えていたが、明治43年に入ると、いよいよ悪く、小説「門」を書きあげた後、夏、修善寺で大吐血し、生死をさまよった。状態が落ち着いてから東京にもどったが、病院で年を越すことになった。
明治44年夏、是公と鎌倉・小坪に遊んだ。是公は鎌倉の長谷に別荘を構えていた。長谷の光則寺門前あたりである。漱石は、是公の別荘に泊まり、翌日小坪に蛸突きにでかけた。小坪での経験は、翌年1月から4月にかけて朝日新聞に掲載された「彼岸過ぎまで」に残されている。
6、大正元年
明治45年 明治天皇は7月30日に崩御され、年号は大正に変わった。この年、漱石はたびたび鎌倉を訪ねた。夏目家は子供たちを鎌倉で過ごさせることにし、夏の間の別荘を、前年に鎌倉の由比ガ浜に移住していた菅虎雄に相談した。そして、大木別荘のすぐ近くにある田山別荘を借りることにした。この家と大木別荘の様子は小説「行人」に描写されている。
この夏、漱石は是公と信州野州への温泉旅行に出かけている。旅先で是公から「学徳の高い漢学者で満洲へ来て修養上の講話をして呉れるものはないか」との相談があり、漱石は漢学者ではないがと云って釈宗演の名を挙げた。そして、菅虎雄に宗演老師への仲介を依頼した。
大正元年 9月11日、漱石は中村是公と満鉄理事犬塚信太郎を伴って北鎌倉の東慶寺に宗演老師を訪ねた。漱石には明治28年以来の2度目の訪問であった。東慶寺に着くと「Z(是公)は石段を上る前に、門前の稲田の縁に立って小便をした。自分(漱石)も用心のため、すぐ彼の傍へ行って顰に倣った。」漱石は、是公ら二人を老師に引き合わせ、巡錫の打ち合せをしたあと、縁切寺のこと、開基のこと等の雑談をして帰った。漱石は長谷の是公の別荘に泊まり翌早朝東京に戻った。
7、二人の雲水
 大正3年頃、神戸市にある祥福寺に修行僧の富沢珪堂(23歳)と鬼村元成(20歳)がいた。ある時二人は「吾輩は猫である」を面白く読んだ。鬼村が漱石に手紙を書き文通が始まった。翌年には、珪堂も、漱石と文通するようになった。そして、大正4年7月、二人は漱石から「若しあなた方が東京へ来たら、私の宅へとめて上げませう。」という手紙をもらう。
二人の若い雲水は、大正5年10月名古屋の大集会に参加し、東京まで足を延ばして漱石宅に滞在した。漱石は、当時「明暗」を執筆中で二人を漱石自身が案内することはなかったが、「今日はどこへ行くとよい」とか相談にのり、毎日十円を与えて送り出した。そして、二人の雲水の話を聞くのを楽しみにしたという。二人は、帝劇での観劇や、新聞社見学、日光見物をし、漱石の文学サロン木曜会にも参加して、都合一週間ほど滞在して、十月末帰った。
二人は神戸に帰ると早速礼状をだした。漱石は、珪堂に11月15日付書簡で「私は五十になって始めて道に志ざす事に気のついた愚物です。・・・私は貴方方の奇特な心得を深く礼拝してゐます。あなた方は私の宅に来る若い連中よりも遥かに尊とい人達です。」と書いている。漱石は、その一週間後、胃潰瘍が再発、それが悪化して、翌月の12月9日不帰の人となった。
葬儀は、12日、青山斎場で釈宗演を導師に行われた。是公は釈宗演に導師依頼の使いとなった。菅虎雄は棺の旗を揮毫した。後、雑司ヶ谷の墓碑も虎雄が書いている。桂堂と元成は、釈宗演導師に従い経を読んだ。そして、初七日まで夏目家に残り経を上げた。
その後、珪堂は、神戸に帰り修行を続け、円覚寺僧堂でも修行した。そして、丹波市の少林寺住職となった。昭和2年、後に円覚寺管長となる朝比奈宗源から円覚寺帰源院の住職にならぬかと勧められ、帰源院住職となった。帰源院に移って後、珪堂は、漱石が若いころ参禅のため宿泊した塔頭であることを知り、「わが仏道をひらき、わが終る所」を得たといって感激したという。
東慶寺門前のかつて稲田があったあたりに、「夏目漱石参禅百年記念碑」が立つ。この碑を見て、漱石を想い、禅を世界のZENにした釈宗演老師を想うと同時に、中村是公、菅虎雄、そして珪堂師など漱石ゆかりの人々にも思いを致して頂けたら嬉しく思います。
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鎌倉は文豪が居住したり訪れたりしております。その中で、史跡めぐりをするにあたって学んだ「漱石
についてご講演されたというお話ですが、内容が深く漱石の人間性に迫ったご講演でした。漱石生誕150年のこの機会に「漱石」を再発見することが出来ました。タイムリーなご講演有難うございました。


2017.11.28
2017.11.25

平成30年1月より宝戒寺さんの拝観料が100円から200円に変更となる見込みです。


2017.11.23

満員御礼
1月特別企画Cコース「天才仏師・運慶の傑作を鑑賞」の実施日1月30日(火)は、定員に達しましたので申込を締め切りました。ありがとうございました。


2017.11.14


ガイド技術向上プロジェクトの一環で、「シンポジウム及びグループ・ディスカッション」が開催されました。
ベテランガイドのパネラーによるプレゼン後は、パネラーを交えての活発な意見交換。
ガイド説明内容の組立て、話の内容・話し方、顧客とのコミュニケーション、ガイド時のマナー等、協会あげて、ガイド技術のレベルアップに努めています。


2017.10.16


めっきり秋の気配が感じられるようになりました。
鎌倉ガイド協会は史跡めぐりの下見を各コース共、数回行っています。その際、清掃ボランティア活動も忘れていません。
秋にお薦めの企画が目白押しです。奮ってのご参加、お待ちしています。


2017.09.26

日時 10月22日(日)13時~14時30分
場所 鎌倉市教養センター大教室
   鎌倉市笛田2-17-1(京急バス鎌倉山バス停徒歩8分、江ノ電バス深沢バス停
   徒歩12分、江ノ電バス教養センター前徒歩1分)
   鎌倉市教養センターは、鎌倉市内にお住まいの60歳以上の方が利用できます。
講座 鎌倉市教養センター文化祭公開講座
   テーマ「鎌倉と夏目漱石~参拝百年記念碑をめぐる人々~」
講師 関谷哲雄(鎌倉ガイド協会会員)
お問い合わせ(鎌倉市教養センター)
   ℡0467-32-1221 Fax32-1203
皆さんの参加をお待ちしています。(お車での来所はできません。)


2017.09.26


テーマは「-日本の仏像美術の流れー」、講師は鎌倉ガイド協会会員の金子俊明さんです。
金子さんの講演要旨は以下の通りです。
はじめに
本日は仏像の歴史、仏像の変遷についてお話をします。時代的には鎌倉時代には仏像の形式がほぼ固まったので鎌倉時代までになります。以前「仏像の歴史」の講座があり受講しておりました。長く受講する気持ちはなかったのですが、3年3か月でようやく運慶が登場しました。今日は3年3か月を2時間に纏めてお話をいたします。ガイドをする中で仏像はかならず出てきますので、ガイドの時に役に立てていただきたい。
1、 仏教伝来と仏像
1)百済の聖名王が仏教を伝え、天皇に金銅製仏像等を献じたが、疫病が流行り「播神」とされ、仏像は難波の堀江に捨てられた。
2)百済から渡来した鹿深臣が弥勒菩薩石像1躯をもたらし、大野丘北に堂を建て法会を行った。その後疫病が流行りその理由が仏会のためとされたので、仏像、仏殿を焼き残った仏像は難波の堀江に捨てられた。
3)用明天皇が病に倒れられて「自分は仏法僧の三宝に帰依したい」と述べ崩御。蘇我・物部・中臣と争い、仏教崇拝者が勝利したため仏教崇拝が始まり崇峻天皇の時代には仏教の興隆をみた。
4)東博法隆寺献納宝物143号の如来と脇侍のように、渡来人によって請来されたと思われる小金銅仏が今でも存在している。
2、飛鳥時代の仏像(7世紀)
大寺院の造立とともに多くの仏像が制作された。前半は朝鮮半島の影響が強く、後半白鳳時代になると遣唐使の派遣により大陸の影響を受けるようになった。
1) 飛鳥寺の釈迦如来である飛鳥大仏は推古十三年(605)仏工鞍作鳥により着手、完成は翌年。現存する最古の仏像である。鎌倉時代の火災で破損し、当初部は両眼、鼻、額を含む顔の上半分や右手の第一指~三指などごく一部となっている。
2) 法隆寺の金堂に祀られている金銅製釈迦三尊像は推古三十一年(623)の造立、司馬鞍首止利仏師の作。両眼を見開き、口元はアルカイックスマイル、左右対称の正面観照性(像に厚みが無い)が特徴。
3) 法隆寺夢殿の救世観音は樟の一木造り。木彫像として最古の作品である、半島系の仏師により制作されたか、推古天皇に奉献された請来仏であろう。左右対称性、正面観照性。
4) 法隆寺百済観音は白鳳時代の作。日本人により作られた日本人的な表情で写実的になった。
5) 広隆寺弥勒菩薩半跏像は半島系の仏師により制作されたか、献納されたもの。
6) 中宮寺弥勒菩薩半跏像は日本的な表現がみられ、優美で写実的な造形。
7) 7世紀半ばころから、唐との交流により、塑像、乾漆像、塼仏像などが制作された
当麻寺弥勒如来坐像は我が国最古の塑像で表面布目貼に金箔を施している。
当麻寺四天王像は乾漆像で我が国最古に属する
川原寺や山田寺跡から大量の塼仏が出土した。(塼仏は粘土を雌型の原型に押し当て写し取り乾燥させ焼いたもの)
3、奈良時代の仏像(8世紀)
仏教が天皇中心の政治体制を支える性格を帯び、寺院および仏像が盛んに造営された。仏像の制作は官営の工房に属する仏師がになった。
遣唐使や唐からの渡来僧による仏教美術の請来により唐風の造形と飛鳥以来形成された我が国の造形伝統が混交した。
1) 8世紀前半には金銅像では薬師寺の薬師三尊像や大仏があり。塑像では法隆寺五重塔本塑像・東大寺戒壇堂四天王立像・東大寺法華堂執金剛神立像、日光・月光立像がある。乾漆像では興福寺八部衆、十大弟子立像や東大寺法華堂不空羂索観音菩薩がある。
2) 8世紀後半ではカヤ、ヒノキを用いた木彫像の出現があった。唐招提寺に木彫像が多いこと、唐風の表現から鑑真の影響が考えられる。唐招提寺の像には白檀を用いて彫刻した檀像があり、日本では白檀が取れないので代用檀像としてカヤ、ヒノキ、カツラなどが使用された。中国で作製され日本に請来した多武峰伝来十一面観音立像や清凉寺釈迦如来立像がある。日本の檀像としては唐招提寺伝衆宝王菩薩像立像や伝薬師如来像があるが鑑真の一行の渡来工人の指導が推定される。奈良博の十一面観音立像、元興寺の薬師如来立像、法華寺の十一面観音立像、法菩提院の菩薩像がある。
3) 木心塑像や木心乾漆像が作られる 作例として聖林寺の十一面観音立像や唐招提寺の千手観音立像がある。
4、奈良時代末から平安時代前期(木彫像の確立)
仏教の展開により仏像の種類が増加した。玄昉が帰朝し密教経典を持ち帰った。空海も曼荼羅や密教経典を携え帰国した。これらの密教経典により明王像が作られた。木彫像が仏像の中心となった。
1) 密教像
天平以来の伝統とは異なる肉厚肥満、デフォルメ、呪い力の発言的表現が見られる仏像で神護寺薬師如来立像や東寺講堂の仏像群また新薬師寺薬師如来坐像及び観心寺如意輪観音像がある。
2)神像 東寺八幡神像や松尾大社の男女神像がある。
5、平安時代中期(和様の形成、寄木造りの初期)
1)和様のきざしともいえる高雅な品性と和らぎや華やぐ表現が見られるようになる。また一木造りから一木割り矧ぎを経て寄木造りが生まれた。和様として仁和寺阿弥陀三尊像や法性寺千手観音像、同聚院不動明王像がある。 
2)不動明王像には弘法大師様(作例としては東寺の不動明王で頭は総髪、頭上に蓮華、両眼見開く、上齒をかむ、左弁髪を垂らす)と天台系(頭は巻髪、頭上に七、天地眼、上下に牙を出す)がある。
3)寄木造りとしては六波羅蜜寺薬師如来坐像と広隆寺千手観音菩薩坐像がある。
6、平安時代後期(和様の盛期、寄木造りの発達)
寺院から独立し工房を構え院や有力貴族の造像を行う仏師が現れ、康尚、その子定朝により確立した。
1)仏師定朝は仏師康尚の子で弟子である。法眼についた。工房を持ち大仏師20人、小仏師105人を抱えた。作例は過剰な飾りのないなだらかさと明るさ大らかさをもった和様の達成をみた平等院鳳凰堂阿弥陀像がある。
2)定朝以降では覚助は名前の確かな作品は残されていないが、長勢には広隆寺薬師如来の脇侍像や二神将像がある。覚助の次世代には院助がおり院派の系譜をなした。長勢の弟子には円勢がおり円派仏師の始まりとなった。覚助にはもう一人の弟子頼助がおり、奈良に活動を移し奈良仏師と称された。
院派は院助の後に院覚が出て待賢門院による法服地蔵菩薩像や法金剛院阿弥陀堂の阿弥陀如来像がある。院覚の後は院尊で円派を凌ぐ活躍をした。平清盛の病気平癒のため薬師如来と十二神将を造仏、興福寺の復興は講堂担当として丈六阿弥陀三尊像を造立。後白河法皇の長講堂の阿弥陀三尊像も造立した。
円派では長勢の弟子円勢が円派仏師の始まりとなった。円勢の弟子に長円と賢円が出た。長円は仁和寺北院の薬師如来坐像が最初の造仏である。尊勝寺の造仏や白河院の宝荘厳院丈六九体阿弥陀堂の造仏を行った。賢円は白河院や鳥羽院の造仏を手掛け、鳥羽金剛心院の九体阿弥陀仏の造仏を院尊との共同制作で行った。
安楽寿院阿弥陀如来坐像は円派仏師賢円又は長円の作と想定されるが、鳥羽離宮東殿に建てられた三重塔の本尊で密教の妙観察智印を結び安定感に富んだ姿で面長薄く開いた伏し目と口唇衣文表現に定朝の写しではない独自性がみられる。
3)奈良仏師、慶派 
覚助の弟子頼助は興福寺伽藍復興に関わり「御寺仏師」と呼ばれた。頼助の息子康助は春日大社の造仏に携わる。また摂関家や鳥羽院関係の造仏に関わっている。後白河上皇御願の蓮華王院本尊が康助であるとする見解がある。康助の没後は康朝より若い傍系であるが康慶が奈良仏師を継承したとみられる。この康慶が慶派の租である。奈良仏師の作風は古典の伝統を踏まえた力強い作風であった。康助作と思われる北向山不動院の不動尊や康朝作とみられる七寺の観音菩薩・勢至菩薩がある。
7、平安時代後期から鎌倉時代前期(慶派仏師の新風)
1)康慶の活躍 
慶派仏師の統率者として興福寺や東大寺の再興に当たる。彫刻に現実性とリアリズムを追求した。興福寺では主要な堂の造仏ではなかったが、東大寺では二天像や大仏の脇侍像、四天王像を担当し独占的に造仏活動を行った。これは、鎌倉幕府との関係を作ったことによる。
康慶自身の作としては、この他瑞林寺地蔵菩薩像や興福寺南円堂不空羂索観音像などがある。
2)運慶、快慶の登場
運慶、快慶の共通的な視点で言えることは、現代に通ずる芸術性があり、仏像として彫刻作品として仏堂を離れても観賞できるということである。運慶は写実主義で外形をまねるだけでなく本質に迫る動態描写がある。 快慶は平安後期の優美さ、自身が浄土教に帰依しているので阿弥陀如来は来迎形である。
運慶の造仏は13件31体あり、円城寺の大日如来坐像がデビュー作である。 快慶の造仏は慶派仏師の中で作品数が多く端正な美意識がある。
3)運慶工房の仏師
快慶や康慶の弟子と考えられる定覚、実慶、宗慶、源慶、静慶、そのほかに定慶がいる。
8、鎌倉時代中期・後期(その他の慶派、院派、円派)
1)運慶の後継者 
運慶の子息には湛慶、康運、康弁、康勝、運賀、運助の6人がおり、大仏師運慶の下で小仏師として造仏活動に携わっている。湛慶は慶派仏師の棟梁として活躍し東大寺大仏師に補任された。晩年の作は後白河法皇の蓮華王院本堂千体千手観音像再興の大仏師となり中尊とその他9体がある。作風は温和な表現の中の微妙な写実に特色がある。康弁は東大寺南大門仁王像を小仏師として担当、単独では興福寺旧西金堂の天燈鬼像・龍燈鬼がある。康勝は単独作として東寺御影堂の弘法大師像がある。
2)その後の院派、円派
慶派の活躍が目立つが、宮廷貴族の世界では院派、円派が活躍している。法勝寺の九体阿弥陀堂の再興では隆円、院承、院継、院恵、院宗の5人が大仏師をつとめている。蓮華王院本堂の再興で造仏の数は院派が104躯、円派が42躯で慶派の22躯を凌いでいる。宝積寺の十一面観音立像は院範の作とされ穏やかな顔立ちやあさい彫りなどやわらかな上品な表現に平安後期の風を残している。
3)その他鎌倉時代の特色
現実主義の協調として裸形像や玉眼があり、頂相彫刻・宋様式の取り入れがある。
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いつもは金子さんとはあまりお話をしたことが有りませんでしたが、仏像の講座を熱い口調で話して下さいました。3年3か月の想いや重みの伝わる講座でした。先輩の皆様の勉強熱心なことに助けられている自分を思う2時間でした。金子ガイド有意義な講義有難うございました。(森川節子速記録)


2017.09.26


サブタイトルは-「甲斐源氏」の里で”鎌倉“に想いを馳せるーです。
コースは鎌倉・大船=《バス》⇒放光寺~恵林寺~信玄館(昼食)《バス》⇒甲斐善光寺~東光寺~かいてらす=《バス》⇒鎌倉・大船

甲斐の国では甲州市のボランティアガイドの方達に放光寺と恵林寺を甲府市のボランティアガイドの方達に善光寺と東光寺をご案内頂きました。お暑い中、それぞれの市のボランティアの方達四名で対応していただき心より感謝致します。
参加者は93名 10期生が入会したので参加者数が過去最高となりました。

1、―「甲斐源氏」の里、甲斐の国―
八幡太郎義家の弟である源義光の子義清が、甲斐の国に移り住み、その子孫が甲府盆地一帯に本拠を築いた「清和源氏一族」である。武田信義を棟梁に富士川の戦いの頃は団結していたが、頼朝派の加賀美氏、義仲派の安田氏、独立派の武田氏、一条氏などに分裂した。その後甲斐源氏は甲斐を基盤とし各国に御家人として勢力を広げた。代表的な存在としては武田氏、笠原氏、南部氏などがある。
2、放光寺
元暦元年(1184)源平合戦で功績のあった新羅三郎義光の孫安田義定が戦勝記念として館近くに建立した。もとは法光山高橋寺を移し高橋山多門院放光寺と改め、安田家の菩提寺とした。
義定は建久四年(1193)子の義資が永福寺の落慶供養式において名越邸で殺されると、頼朝の勘気を蒙り所領浅羽荘を没収され地頭職も免ぜられた。翌年梶原氏に謀反の嫌疑を受け甲州に落ちのびこの寺で自刃したと伝わる。
開基堂の毘沙門天は、梶原景則が義定の亡霊に悩まされ、義定を供養してつくったと伝わる。
その後放光寺は武田信玄が祈願所として寺領を寄進、天正十年焼失するが徳川家康の庇護を受け寺領を安堵され、仁王門、愛染堂は天正年間に、庫裏は慶長年間に再建された。寛永年間には柳沢吉保の援助を受け、安田若狭守宗雲が中興開山となり伽藍の整備がされ、現寺域の基礎をなした。
愛染明王像は「天弓愛染」と称される珍しい像である。
3、恵林寺
元徳二年(1330)に二階堂貞藤(道蘊)が、邸宅に夢窓礎石を招き開山した。甲斐臨済宗の中心となる。応仁の乱で荒廃したが、その後武田信玄が菩提寺となり復興した。天正十年(1582)織田、徳川連合軍による甲州攻めでは、寺に逃げ込んだ佐々木次郎(六角義定)等の引き渡しを拒否したため、怒った織田信長は快川和尚はじめ約百人の僧侶らを三門に閉じ込め焼き討ちにする。快川和尚が「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と発し焼死した。その後、徳川家康が再建した。柳沢吉保は武田家に連なる一族、信玄の法要や寺内の修復に努めた。明王殿に祀られる「信玄生不動」は夢窓礎石築庭の池泉回遊式庭園は甲府八景にも詠まれる名勝庭園である。
4、甲斐善光寺
川中島の合戦で信濃善光寺が焼失するのを恐れた武田信玄は信濃善光寺の本尊善光寺如来をはじめ、諸仏、寺宝類を移すため、永禄元年(1558)甲斐善光寺を創建した。武田氏滅亡後善光寺如来は、織田・徳川・豊臣を転々としたが慶長三年(1598)信濃善光寺に帰座した。甲斐善光寺では本尊を建久六年(1195)僧定尊造の善光寺如来の前立像であった銅造阿弥陀三尊像を本尊として定めた。昨年7年おきの開帳があった。宝物館には木造の頼朝坐像、木造実朝坐像が収蔵されている。
5、東光寺
保安二年(1121)源義光が建立し、寺号を興国院とした。荒廃していた寺院を弘長二年(1262)に甲州に配流されていた蘭渓道隆が禅宗寺院として建立し東光寺に改めた。武田晴信の庇護を受けて再興法蓋山東光興国禅寺に改めた。諏訪領主の諏訪頼重が幽閉され自害した寺と伝わる。また、謀反の疑いをかけられた武田義信が幽閉され永禄十年に死去した。裏山墓地には頼重や義信の墓所がある。江戸時代には、徳川氏により寺領、山林の安堵を受けた。仏殿は入母屋造檜皮葺屋根の様式を残す室町時代後期の禅宗様仏殿である。
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「甲斐で鎌倉にであう」

お会いしたかった、頼朝の木像と実朝の木像。できれば、会いたくなかった政子の木像。元の密偵の疑いをかけられ甲斐に配流された蘭渓道隆。二階堂道蘊に招かれ恵林寺を開き、国名勝の庭園を作庭した夢窓礎石。鎌倉の永福寺を思い出す二階堂貞藤(道蘊)。安田義資に罠をかけた梶原景時にお会いできました。
それぞれの寺院では、ボランティアガイドの方達のご案内により、何気に見ていた風景が歴史の中の一ページへといざなわれました。戦をしながら仏像を大切にした武田信玄、快川和尚の覚悟の美、珍しい「天弓愛染(愛染明王像)」に放光(お寺の名称)を重ね、一つの石像の六地蔵、忘れてはならないワインの味等。楽しい有意義な甲斐路研修となりました。研修会をセッティングして頂いた企画の方達有難うございました。(森川節子記録)


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