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由緒沿革

当山は元真言宗に属し、梅領山夜光寺と称していたが、永仁元年(1293年)肥後阿闍梨 日像聖人が改宗して法華経受持の寺院となす。
宗祖池上にて御入滅の前日、幼少な「経一丸」を 枕辺に招じ、"貴公長じたならば、京にのぼって帝都の弘通と、大法奏上の大任を果たすよう”懇ろに 託された。
「経一丸」長じて日像と名乗り御年24歳の時、宗祖の御遺命を果たす為には強靭な精神力と 体力が肝要なりと知り、正応5年(1292年)10月26日より壱百日間、言語に絶する荒行を開始したのである。
昼は比企ヶ谷の学室に籠もりて法華経を書写し、夜は酷寒の由比ガ浜の海中に浸って、自我偈百巻題目 数万遍唱え夜を徹し、日夜苦修練行を続けた。年明けて永仁元年2月7日、ついに壱百日の練行を成満 し、大いなる自信を得て、上洛の準備を整えたのである。
三ヶ月に渡る苦行の疲れを癒すため、 2・3日休養の間に偶々当所に来たって、夜光寺の住僧と論難し遂にこれを説伏して、真言宗寺院を 本宗寺院に帰属せしめ肥後阿闍梨日像聖人を開山として崇敬しているのである。

次に当山の興隆に大きな功績を残された方に、 大乗院日達上人がおります。広島市の本山国前寺の住職であったが、徳川が禁止した不受不施説を唱えた為に、 幕府の忌避にふれ、寺を追われたが、各地を行脚しつつ九ヶ寺建立し、衰微していた三ヶ寺を復興した 信行兼備の高僧であった。
当山はその中の一ヶ寺であり、日達上人は有力な外護者の援助を得て、忽ちにして 七堂伽藍完備の立派な寺院を完成し、自ら随身仏として奉持していた閻浮檀金釋迦仏像と日蓮聖人御 真筆御本尊並びに日像上人筆御本尊等を安置し、山号寺号を改称し大乗山薬王寺とされた中興の祖である。
その後、寛永年間に駿河大納言徳川忠長が粗暴な性格を理由に甲府へ蟄居を命ぜられた後に高崎に 幽閉され、28才で自刃せられ、所領も没収されたので、奥方松孝院殿(織田信長次男信雄の息女) は悲嘆やるかたなく、当山三世慧眼院日bに、非惨な最後を遂げた主人忠長の霊を法華経による追善供養の 為に法要を営み度いと懇願した。自己の資力を投じて供養塔(市文化財指定)を建立し、永代追善菩提の 為にと莫大な金子と広大な土地を寄進され、三千坪の境内に立派な諸堂を造営されたが、享保5年 (1720年)に悉く焼失した。更に会津若松蒲生氏郷の孫忠知(四国松山城主)の奥方と息女が 元禄年間に死去し当山墓所に埋葬。高さ3m余の寶筐印塔の墓が建立されている。
以上の如く 、徳川・蒲生両家のゆかりの寺であり、忠長公供養塔等の存在によって、寺紋に三葉葵 が用いられていた為、他の一般住民の埋骨を許さなかった格式由緒ある寺であった。

慶応3年大政奉還、 明治元年神仏混淆を分離して尊王攘夷論が台頭し、これが一変して排仏毀釈となった。かくて寺院僧侶の受けていた 特別の待遇は悉く廃せられてしまい、寺院の惨情は目に余るものがあった。
この様な状況に便乗した 当山の看坊(公卿あがりの僧)が財産什宝等を売り払い、遂には無住職時代を現出したのである。
大正3年第50世海栄日振上人が師の命に従い当山の復興に着手し、東身延本覚寺執事の傍、 苦心経営するも昭和13年11月没。昭和12年入寺された前住第51世茲稔日照上人は、東京池上本門寺 50有余年に及ぶ奉職の傍、2代70年の努力によって現在の山容を整えることが出来たのである。 昭和61年に第52世大埜日康上人が住職を継承して現在に及ぶ。



・・・主な行事・・・

          
○ 星祭祈祷 1月15日〜2月20日
 (節分前後一ヶ月)
○ 開山会 5月13日
○ 更衣式 6月 1日 ・ 10月 1日
○ 施餓鬼会 8月 8日
○ 彼岸会 3月 ・ 9月
○ 御会式11月 3日
○ 除夜の鐘12月31日
* 信行会 毎月第4日曜日2時より
(参加自由)


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