仏殿と寺宝(粟船山 常楽禅寺誌より)


  • 仏殿と寺宝

    本尊阿弥陀三尊像を安置する仏殿は神奈川県指定の重要文化財である。
    棟木銘や本尊厨子張出柱の銘によって、元禄四年(1691年)五月に建立されたことが明らかで、方三間(約5m)の小形ながら、鎌倉地方の近世禅宗様仏殿の代表的な建物である。
    また、仏殿の材質は、柱を始め構造材から壁板に至るまで、モクセイ科の落葉高木である塩地材が用いられているのが珍しい。
    この木は関東に少なく、四国・九州北半部の山地に生え、材は、建築はもちろん、器具・枕木などに使用されるものである。

    なお、素木の鏡天井には、狩野雪信筆の力強い『雲竜』が描かれている。
    雪信筆の天井絵は鎌倉地方にはほかにないので、特筆される作品といえるし、かたつむり型の花押も興味がもたれる。

    本尊の
  • 木造阿弥陀三尊像は室町時代の作で、作者は未詳ながらおだやかな作風がしのばれる尊像である。
    阿弥陀は無量寿佛ともいい、西方浄土にいる教主の名である。
    一切の人々を救おうとして四十八の誓いをたてた仏であり、この仏を信じ、その名を唱えれば、死後ただちに極楽浄土に生まれると信じられた。

    この阿弥陀仏に、ことのほか帰依したのが泰時公であった。
    このように、阿弥陀信仰に篤かった泰時公が当寺を開創しているので、現在もその遺志を伝えるように阿弥陀三尊像が本尊として祀られている。

  • 木造文殊菩薩坐像は神奈川県指定の重要文化財で文殊堂(秋虹殿)の本尊。
    鎌倉時代の作。一月二十五日の文殊祭以外は開扉されない秘仏である。

    文殊菩薩はもろもろの仏の智慧をつかさどる御仏で、当寺の像は、右手に如意、左手に経巻を持ち、岩座に座した尊容に造立されている。
    胎内名札によると、永禄十年(1567年)五月に仏師長盛が彩色をし直したことや、安永二年(1773年)に仏師三橋宮内が修理したことがわかる。

    『常楽寺略記』は、この文殊像はわが国における五文殊の一つで、第一奥州永居、第二和州安倍、第三当寺、第四丹後久世渡、第五甲州市川の各文殊だと伝え、ついで「御首ハ天竺毘首羯摩作、開山禅師宋国ヨリ将来、自(みづから)尊容ヲ続ギ当寺ニ安置シ玉フ。宝治二年戌申十二月、禅師時頼ノ請ニ応ジテ寿福ヨリ当寺ニ移住シ玉フ。翌建長元巳酉ノ春、時頼僧堂ヲ建立シ一百人ノ大衆ヲ安ズ。即静覚堂ト扁シ此文殊ヲ以テ本尊トス。」と記している。
    総高79.8cm。

  • 木造釈迦如来坐像は鎌倉市指定文化財で本堂の本尊。定印を結んで坐る尊容で、南北朝時代の作。
    寄木造り、玉眼入り。
    やや面長で張のある顔の造りは、運慶末流の作らしい面影を残しているが、繁雑に畳まれ、彫られた衣文の表現は少々硬い。
    像高53.2cm。

  • 銅造梵鐘は建長・円覚寺鐘とともに鎌倉三名鐘の一つで重要文化財である。
    宝治二年(1248年)三月二十一日、藤原行家(生蓮)が銘文を撰し、ついで鍛造された。
    行家は為家とともに『続古今集』を撰進した歌人と同一人かと思われる。

    銘文に「家君禅閤(泰時公)の遺恩に報いんと欲す」とあるので、泰時公の孫で当時執権の時頼が祖父の追善のために鍛造させたと考えられる。全体にほっそりとした感じで、作風の優秀なわが国を代表する鎌倉期梵鐘の一つであっる。
    総高131.2cm(鎌倉国宝館出陳中)


  • 北条泰時公墓は仏殿の背後にあり、かたわらには鎌倉時代の高僧、 大応国師(南浦紹明)の墓もある。
    紹明は道隆のもとで学んだのち、博多崇福寺に移り、北九州に禅を弘めた功績が大きい。
    建長寺第十三世住持にも任じている。
    泰時公は鎌倉幕府第三代の名執権である。
    よく学問にはげみ和漢故事に詳しく、建保元年(1213年)実朝の学問所筆頭となった。
    承久の変では幕府軍の大将として出陣して圧勝し、乱の平定後は京都に留まっていたが、元仁元年(1224年)父義時が没したため、鎌倉へもどり、執権となって合議制による政治を行った。

    貞永元年(1232年)には由比ガ浜に和賀江島を築き、更に「御成敗式目」を制定し、武家法の規範を示した。
    泰時公は最も良い時期に執権となり、その人格とあいまって、多くの善政をしくことができたのである。
    それだけに公は、政治家として多忙な一生を過ごした人であった。
    花を愛でる暇すらなかったようで、ついに仁治三年六月十五日、過労の上赤痢を併発して、この世を逝った。

  • 色天無熱池は仏殿の右奥にある。
    色天は欲界のよごれを離れた清浄な世界という意味であり、無熱池とは、徳が最もすぐれているとされる阿耨達(あのくだ)龍王が住み、炎熱の苦しみのない池のことをいう。
    これに連なる瀟酒な庭園も、いかにも禅宗風作庭である。

  • 木曽塚・姫宮塚は粟船山の中腹にある。木曽義高と泰時公の女の霊を祀ったとつたえ、寛政三年(1791年)の当寺境内図にも描かれている。
    『鎌倉攬勝考』によると、義高の首実検後、田圃に塚を築いて埋葬した(木曽免)が、その後延宝八年(1680年)二月、田の持ち主石井某が掘り出して当寺に移し、塚を封じて木曽塚と称したと伝える。
    (鎌倉国宝館 三浦勝男誌)

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