お寺の歴史 当寺は鎌倉の北西を守護する位置にあって、鎌倉幕府第三代の執権北条泰時公と、建長寺開山大覚禅師(蘭渓道隆)ゆかりの古刹である。 寺は山号を粟船山(ぞくせんざん)といい、常楽寺と名を改める前は、粟船御堂(あわふねみどう)ともよばれた。 現在の大船の地名はこの「粟船」(あわふね)にちなむとされる。 『吾妻鏡』嘉禎三年(1237年)十二月十三日条によると、泰時公が妻の母の追善供養のため、山ノ内(当時の山内荘)の墳墓のかたわらに一つの梵宇を建立し、退耕行勇が供養の導師をつとめたとある。 これが当寺の開創となったのである。 泰時公は仁治三年(1242年)六月、60歳で他界すると、この粟船御堂に葬られ、翌寛元元年の一周忌法会も同じ御堂でとり行なわれた。 このとき、大阿闍梨の信濃法印道禅なる僧が導師をつとめ、北条時頼をはじめ、生前泰時公と親しかった武士や一般の人々が弔意に参じ、曼荼羅供の儀を修した。 建長六年(1254年)の十三回忌も当寺でとり行なわれ、真言供養が巌修されているので、草創期の当寺は密教的な要素が濃かったことがわかる。 記録上で、“常楽寺”の名がはじめて見えるのは、宝治二年(1248年)三月につくられた梵鐘の銘文においてである。 その文中に「家君禅閣墳墓の道場」、「足催座禅の空観」とあるので、 このころには禅寺としての性格を持つ道場となっていたことがわかる。 この梵鐘が造られた年の十二月、宗僧蘭渓道隆が北条時頼の招きで当寺に入り、純粋な中国宋の禅風を世の人々に示した。 これは建長寺が開堂供養される五年前のことであり、そのころの当寺の建物には三門・仏殿・方丈などがあり、相応の規模をほこっていたことがうかがえる。 『大覚録』(巻上)によると、翌 建長元年正月「常楽寺に一百の来僧あり」といわれるほど、道隆に参禅求道しようとする多くの僧が当寺の門をたたいたため、同年四月には、寺地を広げて僧堂が建立されている。 この間、執権時頼も政務の暇をみつけては師のもとに参禅し、おおいに問法したとある。 一方では、乙護童子にまつわる伝説も伝えられている。 道隆を心から尊崇した江ノ島弁財天は、師の給仕役である乙護童子を美女に変身させてからかったというのである。 それとは知らない童子は、いつものようにせっせと師に仕えていたが、 傍目には道隆が美女をはべらせて寵愛しているようにしか見えない。 当然、土地の人々の口はうるさくなり、美女と道隆の話でもちきりとなった。 ことの由を知った童子は、身の潔白を示そうとして、 にわかに白蛇と化し、仏殿前の銀杏樹を七まわり半めぐり、同じく仏殿のかたわらにある色天無熱池を尾でたたいたのである、と。 建長五年(1253年)十一月、建長寺の開堂供養が行なわれ、禅道場の大刹が創建されると、その住持は常楽寺の住職をも兼ね、当寺を守る僧衆を定めた。 これは、道隆との縁により、 常楽寺なくして建長寺なし(常楽は建長の根本なり)として、あつく尊崇されたためである。
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