堂内僧形の像は、開山古先印元禅師、寄木造玉眼入り、 室町期の彫刻像で仏教美術史上に於いても貴重なものとされている。禅師は永仁元年(1294年)薩摩に生まれ、 八歳にして父に伴われて円覚寺桃渓禅師のもとに投ず、桃渓没後、花園天皇の文保二年(1318年) 二十四歳にして中国に遊錫、天目山中峰国師に参ず。在元九年、嘉歴二年(1327年)三十三歳帰朝、 爾後入滅に至るまで四十余年の間、恵林、等持、真如、萬寿、浄智、建長等の巨刹に歴住、又奥州の 普応、房州の天寧、舟州の願勝、信州の盛興、武州の正法、江州の普門、摂州の宝寿等、皆禅師の創建する所、 その大法の弘通に専念し、東奔西走殆んど寧日なく、世の禅師たちが逸居して詩文の余技に耽ることを 痛く誡められたと言う。而も禅師自身は能筆能文珠玉の詩偈も頗る豊富であったが、入滅前に自ら一切を 火中に投じて「吾祖不立文字にして心印を単伝す、此糠粕を留めて何の益かあらん」と。禅師は晩年、 当山に退老し、応安七年(1374年)正月二十三日夜衆を集めて遺誡し、翌二十四日正午頃待者を呼び、 吾祖至れりと筆を索めて心印の二字を大書し溘然として逝く、八十歳、全身を境内曇芳庵に葬る。 勅して正宗廣智禅師の号を賜う。 開基足利基氏は幼名を亀若丸といい、尊氏の第四子、尊氏関東 根本の地を固めるため基氏を鎌倉に駐め、八州及び奥羽を鎮撫せしめた。基氏は英武にして能く士心を得、 兄義詮を補翼し室町幕府をして東顧の憂をなからしめた。かくて貞治六年(1367年)三月十三日頃より 時疫に侵され、四月十五日病をこらえ円覚寺に入り正続院に仏舎利を拝し、二十四日には僧義堂を 病床に招き後事を嘱し、二十六日終に薨す。二十八歳、遺命により瑞泉寺に葬る。法名を瑞泉寺殿 玉岩同所大居士と言う。基氏四伝して持氏に至り、将軍義教の攻る所となり、永享十一年二月十日 永安寺に自殺す。四十二歳、基氏が府を鎌倉に創してより茲に八十年、その遺図は空しく滅ぶ。当山 観音堂はもと奈良県の古刹忍辱山園成寺に在った多宝塔を改造したものである。 長寿禅寺小誌より転載
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