当院の事跡については、新編相模風土記などの地誌類に記されていますが、ほぼ同じような内容といえましょう。
すなわち当院は光明寺草創以前よりこの地にあって、当時は蓮華寺と称し真言宗に属していたと伝えられています。 しかし創立年代や開山(初代住職)については、つまびらかではありません。 寛元元年光明寺が記主禅師良忠上人によって創建されたのですが、落成に至るまでの間上人は当院に居住して督励に 専念された由緒により、その後新住職が光明寺に入山する場合は、必ず一度当院に入ってから改めて本山方丈にむかう 慣例が残されています。 当院の本尊は阿弥陀如来立像をお祀りしてありますが、この仏像は源頼朝の御家人 千葉介平常胤の守り本尊と伝えられており、当院の寺紋が「月星」であることから何らかの形で千葉家とのかかわり合い があったものと想像されます。 本尊阿弥陀如来立像(寄木造り像高81.5糎)は新編相模風土記稿によりますと、千葉介平常胤の守護仏像 と伝えられるとあります。しかし、この事実を証するものは現在まではありません。 昭和33年及び51年の両度にわたる文化財調査によって、胎内背部に造像銘が残されており 次のことが解りました。すなわち胎内全面に阿弥陀経の48願の文(一部脱落あり)が記され、とくに背部には 「大仏師播磨法橋宗円」の作であること、「宇治氏の女某」が志主となって「父母師長六親眷属乃至法界衆生の平等利益」 のために「正安元年10月1日」にこの像を造進した旨が明記されています。 ちなみにこの仏像の造像は正安元年(1299年)ですから、今(平成17年》から706年以前の昔に作られたわけです。 なお、お首の柄には、貞治3年2月4日に修理したことが記されています。ともかくこのように在銘のはっきりしている 仏像として貴重な文化財とされています。
昭和53年1月末に当院の内陣天井は、いわゆる花鳥風月等の絵画による荘厳が整いました。悲願という言葉の通り、
松岡家(鎌倉市大町在住)三代に亘る行業によるものです。 この十数年来の悲願に応えて月岡栄貴画伯を主宰として 16人の方々がその彩管をふるわれました。 内陣とは、いわば須弥山(しゅみせん)を中心にしての阿弥陀仏の 世界、すなわち西方極楽浄土と申してよいと思います。その浄仏国土に仏の光明は妙なる華の如く降りそそぎ、仏光を 慕って数多くの鳥獣が踊躍するなど、この絵画は美しくも浄かな仏の世界を想起せしめます。 なお外陣の板襖は、久しく剥落していた彩色が新たに施されて、松の大樹と牡丹と唐獅子が色鮮やかに再現されました。 ちなみにこの彩色は月岡栄貴画伯及び後藤芳世画伯のお力によるものです。 相陽鎌倉・浄土宗・蓮乗院縁起より転記しました。 蓮乗院訪問記 蓮乗院写真集 |