光則寺訪問記 (2004年10月12日) 今回は「海棠」の古木で知られる日蓮宗 行時山・光則寺をご紹介します。 鎌倉長谷の「長谷寺」への道右隣を平行 している道路を歩くと光則寺山門です。 鎌倉駅から江ノ電で長谷駅下車、長谷の交差点先路地 を左へ徒歩10分位。大仏さんへも近いところです。 所在地:鎌倉市長谷3−9−7番地
台風の上陸が記録的に多い今年(平成16年)、鎌倉に多くの被害を残した22号台風が通りすぎてもなお 雨が降り止まない、10月12日午後お忙しいご住職にお時間を頂き、お話をお伺いしました。
日蓮聖人は佐渡流罪を許され、その後鎌倉を経由して、文永11年(1274年)身延山に入るのですが、 宿谷光則は日蓮聖人に帰依して、この場所に光則寺を創立するのです。 こういった記録に残っている年代から光則寺は1280年頃創立されたと考えられます。 日蓮聖人は宿谷を「屋戸谷」と書かれています。音をそのまま字に当てはめて書いたのでしょう。 また、宿谷家の子孫の方で、宿谷 (しゅくや、もしくはすくや)という姓の方もおられます。 現在の本堂の躯体部分は慶安3年(1650年)建立です。 石州(島根県)浜田の城主古田兵部少輔重恒の後室、大梅院常学日進大姉が多額の寄進をし、本堂・山門・庫裡の建立、修理をしたと 言われています。大梅院が再興したため光則寺は大梅寺とも呼ばれていました。 その後、享保10年(1725年)から4回、堂宇が疲弊すると光則寺の仏像を、江戸の浅草や下谷・深川などに持っていき、「出開帳」と称し 改修資金を集めたとの記録があります。「出開帳」に持っていったのは、本堂に安置されている「日蓮聖人像」や「愛敬稲荷像」などです。 また、本堂には天保11年(1840年)と書かれたいくつかの品があります。これも本堂の再興又は、光則寺の大きな行事の年代推定に役立つと思います。
日朗上人と共に牢に入ったのは、4人の信者と言われています。 入牢といっても、幽閉されていたのか、邸に居て単なる外出禁止されていたのか、更に自由があったのかもよく分かりません。 日朗上人は、日蓮聖人の佐渡流罪中に6回佐渡へ行き、7回目に日蓮聖人の赦免状を持参したと言われています。 光則は、浄土宗の信者でしたが、日蓮聖人に帰依して邸を寺にし、光則自身も当寺の3代住職に なっています。 境内の木や草花に、それぞれ見ごろの写真をラミネートした案内札がついていました。 ご住職に訊ねると、ここ一年かけて大体写真を撮り終わり、先代住職が集めた草花を大切にしていきたいとのこと。 又、山門に境内の草花や、木の場所を示す「光則寺花マップ]が 置かれていて、細かく調べてその位置が記入されています。
現在の花マップは2代目だそうですが、初版の花マップに面白いエピソードがあります。 初版の花マップを見た書店の丸善の方が、 シーボルトの「フロラ・ヤポニカ」を出版する計画があり、シーボルトが絵師の川原慶賀などに描かせた植物画と多くが一致するという事で、非常に高価な本 「SIEBOLT'S FLORILEGIUM OF JAPANESE PLANTS」を頂きましたが、この図譜を見る人が見れば、それぞれの草木が、当時どんな病気に罹っていたのか分かる程精密に描かれているのだそうです。
内庭に、日蓮聖人4回の法難に因んで、滝を4段設けた池があります。(松葉ヶ谷法難・伊豆法難・小松原法難・龍の口法難) 一番上の滝水の所に五個の石を組んで、お釈迦様が法華経をお説きになった霊鷲山(りょうじゅせん)を模しているとのことです。
「衣裏繋珠(えりけいじゅ)の譬え」 法華経の「五百弟子受記品第八」の中に出てくる法華七譬の5番目「衣裏繋珠の譬え」で、衣の裏に宝物を持っている (大切なものを持っていても見えない)と言う教えから、灯篭を玄関からは見えるが客殿の部屋からは見えないところに置いてある。と説明がありました。 このお庭は、(中庭のため)一般の方は拝見できません。
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