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光則寺の縁起



1 立正安国論と光則寺  光則寺は北条時頼の近臣、宿谷行時・光則の邸址である。日蓮聖人は文応元年(1260年)  行時の邸を訪れその手を経て立正安国論を時頼に奏進した。

2 日朗上人土の籠 立正安国論が因になって日蓮聖人は幾多の迫害を受け、 龍の口法難・佐渡流罪(文永8年〔1271年〕)に際しては弟子日朗上人は宿谷氏の邸後の土の籠 に幽閉された。かの「土籠御書(つちのろうごしょ)」は佐渡流罪の前夜、日朗上人宛に書かれた手紙である。

日蓮は明日佐渡の国へまかるなり。今夜(こよい)のさむきに付けても、ろうのうちのありさま思ひやられていたはしくこそ候へ。 あはれ殿は法華経一部を色心二法共にあそばしたる御身なれば、父母六親一切衆生をもたすけ給ふべき御身なり。 法華経を餘人のよみ候は口ばかり、ことばばかりはよめども心はよまず、心はよめども身によまず。色心二法共に あそばされたるこそ貴く候へ。天諸童子以為給使 刀杖不可 毒不能害と説かれて候へば別の事はあるべからず。 籠をばし出でさせ給ひ候はば、とくとく来たり給え。見たてまつり見えたてまつらん。
恐恐謹言

 文永8年辛未10月9日           日蓮  花押

     築    後    殿
(日朗上人は築後房といわれた)


3 光則寺の創立  日蓮聖人は佐渡流罪をゆるされ鎌倉を経て身延山に入られた (文永11年〔1274年〕)。その後光則は日蓮聖人に帰依し光則寺を創立した。現在の本堂は慶安3年(1650年) の建立である。

4 大橋太郎の土の籠  九州平家の大名大橋太郎通貞は源頼朝に捕らえられ 「鎌倉由比ガ浜の土の籠」にいれられること12年、一子一妙麿の孝心によりゆるされたという物語は、日蓮聖人遺文に 示されており、本堂裏の山腹の土の籠がそれである。

5 日朗上人木像  (鎌倉市文化財)日朗上人第300遠忌(元和5年〔1619年〕) に造られたもので当山に安置してある。

6 本堂の「師孝第一」及び「立正安国論」の額は日蓮聖人の御真蹟(拡大)である。

7 天然記念物海棠(かいどう)と梅林  境内の海棠は樹齢200年、4月上旬満開、その 艶麗さは近隣に例を見ない。又梅の古木多く2月上旬頃開花。

行 時 山    光  則  寺


光則寺縁起書より転載




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