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浄泉寺の歴史


当寺は、鎌倉市腰越2−10−7に在り、山号を小動山(こゆるぎさん)院号を松岩院(しょうがんいん)と称し、古義真言宗大覚寺派で開山は弘法大師(空海)と伝える。中興開山は弘治四年寂した元秀(げんしゅう)である。
もと青蓮寺(鎖大師)の末寺であったが現在は京都大覚寺の末寺。

本尊は左に剣を持ち、腕を交差させている「不動明王」である。

大正六年七月(1558年)まで小動神社の別当で、中興後二十二世栗林龍照の時、神仏分離した。(「檀徒総代世話人会決議録」)腰越の老人のうちには、お祭りのとき当寺の住職が馬に乗って神輿に供奉したのを覚えている人があるという。
「関東古義真言宗本末帳」には浄泉寺寺内御免と見えている。

鎌倉市史寺社編より。


新田義貞が鎌倉攻めの途中に八王子社(現在の小動神社)に奉納した剣が、このお寺に保存されていたことがあったといわれている。
又、文治年間(1185〜1189年)に、佐々木盛綱が船上からこの寺を拝んだという話も残っている。

山門も本堂も、元は江ノ電の線路のほうを向いて建っていたが、(昭和30年「1955年」)国道134号線が造られた際に、現在の位置に移された。
腰越の大通りに面した旧参道入り口には、「相模二十一ヶ所弘法大師第六番」と書かれた石碑がある。
国道の工事中、昭和29年(1954年)に浄泉寺墓地の南側と小動神社境内から、開元通宝、治平通宝、政和通宝、洪武通宝、その他宋や明の古銭が千数百枚、約60kgも出土した。

江戸時代には、このお寺にも寺小屋が開かれていた。その頃は、このお寺に限らず方々の寺で筆子(生徒)を集めたが、この付近ではこの寺が一番盛んであった。
明治五年(1872年)に学制がしかれた後、散在していた寺小屋をここに集めて発蒙学舎となった。これが腰越小学校の始まりである。

鎌倉子ども風土記より。




・・・ 本  尊 ・・・

本尊木造左剣不動明王



・・・ 行  事 ・・・

一月十一日 初護摩

八月十日 施餓鬼法要



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