浄泉寺訪問記
2003年1月30日
今回のお寺さんは、”古義真言宗大覚寺派・浄泉寺“。
1月下旬お天気続きの午前にお伺いしました。
江ノ電腰越駅から徒歩5分弱の小動岬の近くです。
駅を降り線路を渡った道を小動岬方向へ
50Mぐらい歩くと右側に浄泉寺の小さな看板があります。
看板を右折、狭い側道を進むと浄泉寺境内に入ります。
以前に山門のあった所ですが現在は国道側に山門があります。
所在地:鎌倉市腰越2−10−7
鎌倉の海岸、七里ガ浜と片瀬・腰越の浜を分けている岬が「小動岬(こゆるぎみさき)」です。地名の由来は、岬の山頂に三本の松があり、この松が風もないのに枝葉が揺れていた、というところからだといわれています。
昔、神仏を一緒に祀っていた時代は、「小動神社」と「浄泉寺」は一緒になっていたようです。
昭和30年(1955年)小動神社と続いていたお寺の敷地内を、国道134号線が造られた時、本堂の位置と向きを変更し、山門も国道側へ移したとのことです。
朱塗りの山門をくぐるとやや左側正面に本堂があり、本堂右に庫裏があります。
本堂前に大きな「蘇鉄(ソテツ)」が小山のように茂っており、境内はさほど広くありません。
お若いご住職に時間を割いて頂き、今年一月落慶法要がすんだばかりで、木の香りが満ちている新築の庫裏でお話を伺いました。
朱塗りの山門のいわれを、ご住職は以下のように話してくれました。
「朱塗りの山門はあまり見かけないのですが、山門は三門(三解脱門)ともいい、結界の入り口で結界の中は汚れを嫌います。
赤は魔よけの色なので、朱色にしてあるのです。浄泉寺は昔から赤い山門でした。
ちなみに四国八十八番札所の寺院ではいくつかのお寺が赤い山門です。」
小動神社は江島神社と関係が深く、お寺の開山と伝えられる弘法大師が江島神社で修行されたと伝えられているそうです。
また浄泉寺住職が小動神社の別当を兼ねておられたというご縁からか、今でも江ノ島には浄泉寺の檀家が多いのだそうです。
浄泉寺には寺院墓地は無く、檀家のお墓はそれぞれ檀家の家の近くにあり、お墓を造って檀家となりたいと希望される方には寺院墓地のあるお寺を紹介しているそうです。
したがって、檀家の数も昔からあまり変わらないとのことです。
今は、地名・町名として残っていないのですが、腰越は「浜上」「神戸」「土橋」「中原」「下町」の五ヶ町からなり、小動神社にはそれぞれの「山車(だし)」があり、浄泉寺の檀家さんもこの五ヶ町の方が多いのだそうです。
浄泉寺のご本尊「不動明王像」は左手に剣、右手に索(さく)を持ち「左剣不動明王」と言われています。
左手に持った剣を手を交差して右にかざし、右手に持った索は左側にあるので通常の不動明王と同じ側に剣と索がみえるのだそうです。
秘仏として公開されず、説明されている住職もまだ見たことがないとのこと。同じ厨子の中に安置されている「御前立」(おまえだち)も非公開で、今回、特別のはからいをうけ写真を撮らせて頂きました。(写真集を参照)
十一面観音菩薩像も寺宝の一つで、この菩薩は小動神社ご神体の「本地仏」(ほんじぶつ)として伝わったもので、明治になって浄泉寺でお祀りしています。
十一面観音は仏像としては古い(スタイルの)仏像で、仏教が大陸から伝わった時期に好んで建立されたとのことです。
落慶法要を一月に行ったばかりの庫裏(写真左)と、庫裏の地下に設けられた駐車場の写真をご覧下さい。
寺院墓地がないと紹介しましたが、歴代住職のお墓は当然ですが境内にあり、そのほか江ノ島の檀家さんでお墓が崩れてしまい墓地用地がなくなった方数家の墓地が山門脇にありました。
昔は、小動神社の領地が今の江ノ電「七里ガ浜駅」周辺まであったとかで、現在の鎌倉高校裏の墓地は浄泉寺の寺院墓地であったのかも知れません。
江ノ島方面に散策に来られた方は、小動岬・小動神社・浄泉寺と立ち寄って見ると意外な発見があるかも知れません。
このあたりは、腰越漁港もあり獲れたての「シラス」が一月から三月を除き販売されています。
あとがき
鎌倉のお寺さんを訪問して、各寺院のご住職の話をお伺いして紹介していますが、今回の浄泉寺はご住職が30代前半のお若い方で、法衣を脱ぐと市中の若者と変わりません。いつもは同級生・友人などと普通の会話をされているのだと想像されました。 ただ、一般の若者と違うところは、古い檀家に護られたお寺のご住職として、将来像を描きながらお寺と檀家の交流(コミニュケーション)をどのようにすべきか常に思案され、良しとすることを実行しようとしていることです。 浄泉寺の檀家ではない取材子も、お話を聞きながら応援したい気持ちになりました。
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