補陀洛寺の歴史
南向山帰命院補陀洛寺と号する。古義真言宗。もと京都仁和寺末(新編鎌倉志)、のち青蓮寺末(関東古義真言宗本末帳)、現在京都大覚寺末寺。開山は文覚上人、開基は源頼朝と伝える。のち、鶴岡供僧頼基が中興した。本尊十一面観音。もとの本尊は薬師如来。日光・月光(新編鎌倉志)、ほか不動あり。
はじめとおわりがなくなっている勧進帳があって(新編鎌倉志)、これによって開山、開基のことが推定できたらしいがいまはない。頼基は仏乗坊の八代及び十代で、建武三年六月に還補されているから、この寺の鐘(「考古編」鎌倉の古鐘 註・この鐘は現在東慶寺にあり補陀楽寺と銘記されている)ができた観応元年には供僧であったことになる。当寺が頼朝と関係があることは、前述の勧進帳に見えるのを初見とするが、もし「新編鎌倉志」のいうようにこれが頼基の作とすれば、南北朝の頃からそういはれていたことになる。事実、頼朝の供養をここですることになっていたらしい。(「史料編」1の594)「関東古義真言宗本末帳」にも、補陀洛寺、源頼朝御位牌所、寺内門前屋敷御免とみえている。
明治初年の火災で殆ど烏有に帰したが、その時誰も出した覚えがないのに、仏像類は全部無事であったという。大正十二年震災で全壊し、現在の本堂は大正十三年春の建立である。
以上(鎌倉市史 社寺編より抜粋)
開山は文覚にて養和元年頼朝祈願所として創建あり。
その後頽廃せしを鶴岡の供僧頼基中興せり。
本尊不動
長三尺智小證作
(平家調伏の像と云う)
「鎌倉志」には、本尊薬師とあり
(註:現在は「十一面観音」を
本尊としている)
薬師長三尺七寸
日光・月光
各長二尺八寸
十一面観音
長三尺八寸
(往昔の本尊なりという)
地蔵二体
・ 鉄仏長一尺
(門前の井中より出現せしという)
・ 長一尺七寸
毘沙門
長一尺
賓頭盧(ビンヅル)
長三尺
などの像を置く。
また、頼朝の木像(長八寸四十二歳の自作という)。鏡の御影と稱せり、同位牌あり
(征夷大将軍二品幕下頼朝神儀とあり文覚の書という)。
寺宝
不動曼荼羅一幅
八幡菩薩像一幅
卓圍一張
旗一流 (平家赤旗と称し、文字は相国清盛の筆という)
以上(新編相模国風土記より抜粋)
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