今泉不動の草創は弘仁9年(818年)頃で、弘法大師が金剛峰寺を開いてから2年後 と伝えられている。 この草創を今に伝えるところに依れば、弘法大師が諸国巡行のおり鎌倉に至った際、 紫雲に包まれ光明のさす山に出会い人伝えに神仙の棲む金仙山と云うことを知った。 大師がこの山に踏み入ると忽然として翁・媼が現れ、「我等は此の山に数千年住み 大師の来るのを待っていた。此の山は二つとない霊地である。速やかに不動明王の 像を刻み、密教道場の壇を築き末世の衆生を救いなさい」と告げた。 大師は、即刻二尺八寸の尊像を石で刻み本尊と定め、又同時に一尺二寸の大黒天を彫り伽藍の守護神として祭った。 時に彼の翁・媼は「此の地は水が乏しい。村里も困っているから豊かな水を進ぜよう」 と傍の岩を穿ち陰陽の滝をながし村里に恩恵を与え、以後金仙山を改め今泉山と称する こととなった。この翁は不動明王の化身で、また媼は弁財天の生まれ代わりと伝えられる。 称名寺は、初め不動堂の別当で円宗寺と称し、建久3年(1192年)頼朝が征夷大将軍 に就任の年「上野村白山社家系中納言法師の弟子寂心法師」が寺を開き、密教に属し 頼朝も深く信仰していた。 その後、北条九代に至った貞享二年(1684年)の夏、武州深川の僧・直誉蓮入師が 江ノ島弁財天のお告げで、この山に七日独座念仏したところ不思議にも、大黒天の背負い 袋から毎朝2〜3合の米が漏れ出して飢えの患いがなくなり、是から近郷の男女が帰衣し お互いに協力、まもなく不動堂・阿陀堂の建立がなされた。 時に元禄六年(1693年)芝の増上寺・貞誉大僧正より、「今泉山一心院称名寺」の 山号寺号請け、当時数多くの修験者道場として著名であると共に、現在の浄土宗寺院と してその基礎を確立した。
称名寺訪問記 称名寺写真集 |