
編集部員のリレー随筆(70)
サイパン島
昨年(平成27年)の秋にサイパン島へ旅行する機会があった。 この海外旅行はゴルフ仲間と海外ゴルフおよび観光目的で計画されたが、私の希望を取り入れてくれて行先として太平洋戦争の戦没者の慰霊が出来る場所でもあるサイパン島に決められた。なぜなら、その戦争の終盤の昭和19年に、日本海軍航空部隊に所属していた私の叔父が22歳の若さでマリアナ諸島海域で戦死したので、かねてから慰霊・参拝の機会を持ちたかったからである。
周知のごとくサイパン島のあるマリアナ諸島は太平洋戦争の日米の激戦地であって、そこで多数の日米軍人と民間の在留邦人が戦死あるいは自決で亡くなられ、その人たちの慰霊のため現在サイパン島には日本政府や民間が建立した多くの慰霊碑がある。
叔父の戦死の事実は今は亡き父親から聞かされていたが、現在もwebに叔父の実名・出身地・両親名と共に、戦死時の現地状況が記録されていることでさらに具体的に知ることが出来た。 そのwebには他の多くの若い戦友たちの戦死状況も記録されている。戦後の70年を経過した時点で、叔父達が日本のため、我々子孫のためにと戦った戦跡をその地で実際に見て、多くの慰霊碑のいくつかに参拝出来たことは私の人生の中で意義のあることであった。
■激戦の跡
サイパン島を含むマリアナ諸島での日米戦闘の様子については、数年前に公開された映画(『太平洋の奇跡/フォックスと呼ばれた男/』)や、またNHKのドキュメンタリー番組(『戦争とプロパガンダ』)での記録映像にあるように、この地域の日米戦闘のために多くの日本軍兵士の戦死や在留邦人の自決など本当に悲惨な結果になったようだ。
サイパン島の北部には、日本軍の司令部跡地があり、そこに戦車(写真@)、高射砲(写真A)の残骸および戦闘計画を示す看板(写真B)などが展示されていて当時の戦闘状況の一部が垣間見えるようである。
戦車は意外に小さく、また薄い鉄板で作られていて、日本で製作しサイパンに輸送するために軽く小さくしなければならなかった事情なのか、不利な状況下での戦いであったろうと推察される。ガイドの説明では、当時は兵士は軍の制服をきちっと着込んで乗り込むことが決められていたようで、狭い車内でかつエアコンも無い中で酷暑に耐えなければならない過酷な戦闘であったようである。
また日本軍司令部のある洞窟上の崖には、米軍が戦艦からの大砲で島内を攻撃したときに出来た砲撃の跡(写真C)が生々しく残っている。
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■慰霊碑
日米戦で亡くなられた多くの日本人の慰霊のために、サイパン島北部に昭和49年(1974年)に建立された日本政府の「中部太平洋戦没者の碑」(写真DおよびE)がある。 平成17年(2005年)には天皇、皇后両陛下がご訪問され、ご供花と共に両陛下から賜られた御製・御歌を記した歌碑(写真F)が建立されている。 また民間の遺族による多くの慰霊碑(写真GおよびH)も建立されている。民間の慰霊碑はサイパン島の市街地にも多く建立されているようだ。 叔父は父親の実家に掲げられている写真(写真I)でその面影を知るのみだが、その叔父を含む5万人余の犠牲になった日本人の慰霊碑に参拝できたことは貴重な機会であった。
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■サイパン島の自然
サイパン島には美しい緑の森と澄み切った青い海があり、とても印象的である。
ホテルの部屋のベランダから望む朝(写真-J)と夕(写真-K)の景色は、しばし見とられるほどのファンタスティックな光景である。海の景観(写真LおよびM)も素晴らしく、澄み切った海でのスキューバダイビングでは世界的な名所であるとのことである。
サイパンの島内には多くの花々が赤く咲き誇っており、森の緑、海の青さと3色が対比出来て美しい限りである。その中のほんの一部をここに掲載する。
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■サイパン島の願掛け人形
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サイパン島には、先住民族チャモロ族に古くから伝わり、願いが叶うと言われている「ボージョボー人形」がある。 この人形は男女ペアになっており、つる草の実(顔と体)とココナッツの繊維で作られになっている。 願掛けの種類には、恋愛運・金運・子宝・仕事運・健康運・交通安全などがあり、それぞれ男女の手足の結び方やからませ方で表現するようである。 この人形の存在は以前に日本でもテレビで紹介されたとのことである。 我が家にも一体(本体の高さは約20cmほど(右の写真))の「ボージョボー人形」をお土産として持ち帰り、「健康」を願う結び方(男女共に前で手を組む結び方)にして居間の壁に飾ってある。
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撮影・制作:ぱどれ
