古き鎌倉再見 その25

―大倉耕地(大倉幕府跡)2―

   前回に引続き、最初の幕府があったという大倉耕地の、明治末頃の写真を紹介します。  写真1は、前回の写真に見える源頼朝・島津忠久らの墓道を示した石碑から頼朝墓を望んだもの。右側に数棟のかやぶき家と、右側には洋風?の建物があります。写真のタイトルに「大蔵の幕府址(其二) 鎌倉大蔵なる幕府址の中央部にして正面の山は貝吹山なり、頼朝の墓及び法華堂址此処に在り」と記されています。

 写真2は、同じ墓道を角度を変えて撮影したもの。「大蔵の幕府址(其一) 頼朝の幕府址は鎌倉大蔵に在り、方六町許あり、此図は幕府址の東北部即ち東御門方面にして荏柄天神より貝吹山迄の真景也」の説明文があります。  両方の写真に見えるかやぶきの建物群は全体が植木に囲まれており、大きな屋敷であったかも知れません。

 ところで、長谷大仏前にある鎌倉病院(鎌倉院治療処)の創設者のひとりであった、中浜東一郎(なかはまとういちろう・1857〜1927)の日記の明治43年(1910)12月4日の記事には、東一郎が「大倉に住する杉浦賀七」という人物に招かれ、 「宅は新に成り、旧頼朝邸の跡を開放して大庭園を設く。鶴二羽を養ふ。風景佳し」 と、当地を訪れたことが書かれています。また翌年3月5日には、 「十二時三十分の汽車にて鎌倉に行き、直に杉浦氏宅に招かれたれは、同家に行き観梅。庭園広く風景絶佳、別室にて主人と対坐、夕食の饗応を受け、東京新橋より芸妓弐人を招きて周旋せしめ丁寧なりき」 とあって、派手な歓迎を受けました。杉浦賀七については、明治45年通友社刊『現在の鎌倉』の「其他」の項に、商人等と並んで「同上(相州鎌倉雪ノ下)六七三 北海道、函館、汐見 杉浦嘉七」とあります。また、「旧土地台帳」には雪ノ下字大倉耕地641番1(現清泉小学校の一部)に明治45年6月6日登記の事実があるので、あるいはこの人物の別荘は、写真2の画面右側に並ぶかやぶきの建物群の辺りになるとも考えられます。

 杉浦賀七は中浜東一郎の日記の内容からすると、かなりの豪商であったようです。そして、中浜東一郎の日記と今回紹介した2枚の写真は、今まで知り得なかった鎌倉幕府の旧地「大倉耕地」の変貌の様子をつぶさにうかがえる貴重な史料といえるでしょう。
 なお、中浜東一郎は、鎖国の時代に海外帰国者として激動の幕末を生き抜き、のちにわが国の近代化に貢献したジョン万次郎(中浜万次郎・1827〜1898)の長男です。

写真:明治時代末頃の大倉耕地「大蔵の幕府址(其二)
写真1 明治時代末頃の大倉耕地「大蔵の幕府址(其二)」
『日本史蹟(天,月之巻)』熊田葦城 大正2年修訂再版 昭文堂 より

写真:明治時代末頃の大倉耕地「大蔵の幕府址(其一)
写真2 明治時代末頃の大倉耕地「大蔵の幕府址(其一)」
『日本史蹟(天,月之巻)』熊田葦城 大正2年修訂再版 昭文堂 より


浪川幹夫

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