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泉光院の歴史


開山(かいざん)
当山は、伝えられるところでは、寛永十六年九月七日(1639年、江戸時代、三代将軍徳川家光のころ) 大法師季等和尚がひらきました。以来、鎌倉市手広にある鎖大師青蓮寺(くさりだいししょうれんじ) の末寺として長らく古儀真言宗高野山派に属していました。現住職(泉全良)の代で、真言宗大覚寺派 にかわっております。
なお、泉光院には、住職がいない時代があり、寺の縁起(えんぎ=物事のおこり、はじまり) や過去帳(なくなった人の俗名や戒名を記したもの)などが失われたので、正確にはわからないところがあり、別の言い伝えもあります。

大震災と再建
大正十二年九月一日に起こった関東大震災は、本堂・山門・薬師堂に大被害を及ぼしました。本尊・仏具などを庫裏(くり=寺内の住職やその家族の住まい) に避難させたものの、続く余震によってまったく手のほどこしようのない状態になりました。当時の泉光院関係者も復興に努力したようですが 、昭和初期の大恐慌や日中戦争、太平洋戦争によって、再建がままならなかったようです。戦後、現住職(泉全良)の代になって、本堂の再建 (昭和三十六年十月)、薬師堂の再建(昭和五十二年十一月)、客殿の建立(平成三年四月)、境内整備事業(平成六年七月)をおこない、現在にいたっています。

御本尊
当山のご本尊は、阿弥陀三尊仏(あみださんぞんぶつ)です。中央におまつりしてあるのが、阿弥陀如来(あみだにょらい)で、その両脇の仏様は、むかって右が観世音菩薩 (かんぜおんぼさつ=観音様)左が勢至菩薩(せいしぼさつ)です。阿弥陀如来は、西方十万億仏国土を過ぎたところにある極楽浄土(ごくらくじょうど)におられる仏様で 、四十八の大願をなしとげ如来となりました。知恵と慈悲(じひ=仏様のめぐみやなさけ)の 徳を示し、私たちの苦悩をとりのぞいてくださる仏様です。観世音菩薩は、慈悲を示し、私たちを救うためあらゆる場所にあらわれ利益(りやく)をほどこしてくださる仏様です。 勢至菩薩は知恵の徳を示し、大威神力をもって私たちにすくう煩悩(ぼんのう)の悪魔をおいはらいます。
三尊はすべて木造寄木造(よせぎづくり)です。中央の阿弥陀如来像は、蓮弁形挙身光(れんべんぎょうきょしんこう)を背負い、上品下生(じょうぼんげしょう)の来迎(らいごう) の印を結んでいます。観世音菩薩の光背(こうはい)は輪光で蓮台(れんだい)を持っています。勢至菩薩の光背は輪光で、合掌(がっしょう=手を合わせること)しています。

宝筺印塔(ほうきょういんとう)
当山の山門を入って進みますと、ふるい石塔が二基むかいあって立っています。左側は宝筺印塔といって、四角い檀(四角い石塔)の上に同じく四角い塔身を置き、屋根を作ったものです。 屋根の上には相輪が高く掲げられています。この塔の中には、宝筺印陀羅尼(ほうきょういんだらに)という有難いお経を写したものが納めてあります。 山門から入り、宝筺印塔から吹きぬけてくる風にあたれば、すべての罪が消えうせて、清らかなほとけの心が生じて幸せになるといわれています。 塔に書かれた銘文によりますと、安永八年(江戸時代、1779年)に、近隣の檀徒の方が、現等二世(=現在と来世)の幸福を願って、浄財を寄付し建立(こんりゅう)したとあり、 裏側には、相州鎌倉郡町屋村講中及び年月日、大願主沼井源右ヱ門、同妻、等と記されております。

徳本行者真筆宝号塔(とくほんぎょうじゃしんびつほうごうとう)
山門を入って右側にある塔は、徳本行者真筆宝号塔です。形は普通の石塔形で、正面に「南無阿弥陀仏」の六文字名号がほってあります。また、銘文(めいぶん)には、徳本上人 (とくほんしょうにん)の御真筆とあります。徳本上人とは、有名な念仏行者で江戸、文化・文政時代に諸国を順錫(じゅんしゃく=おしえを広めるために諸国をまわること) されました。上人の教えによって、このあたりでも称名念仏(しょうみょうねんぶつ)が盛んになり、その影響で、安政五年(1858年)に、この塔が建立されました。 この塔のできる少し前に、江戸三代飢饉(ききん)のうちの一つ天保の大飢饉があり、多くの餓死者がでました。そこで、当所の内海氏が発起人(ほっきにん)となりこの供養塔 建てることを、近郷近在の人々に呼びかけ、浄財(=寄付)を集めました。そして、塔を造るとき、塔の下に、戒名(かいみょう=仏門に入るときにつける名前、普通は 亡くなったときに授けられる)を書いた沢山の石が収められました。この塔は、もともと、山門を入ってすぐ左側にありましたが、薬師堂再建(昭和五十二年十一月)の際 、現在の位置に移動しました。移転工事の際に、前述のたくさんの小石が確認されています。塔の台座には協力した近郷近在の方々の名がほってあります。また、裏面には 、発起人の内海六郎右ヱ門、同伜久次郎、及び世話人の方々の名前が連記してあります。

六地蔵(ろくじぞう)
山門を入って少し進むと、市の保存樹木に指定されているカヤの古木があります。そこを墓地に向かって左に曲がるとすぐそこに六体のお地蔵様がおまつりしてあります。 これを六地蔵といいます。六地蔵とは、地蔵尊本願経(じぞうほんがんきょう)というお経に地蔵菩薩を六道能化(のうけ=人に仏の教えを上手に伝える者という意味) としていることからこのように呼ばれます。六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)とは、六種類の苦界(くがい=苦しみの世界)をさします。この六道のそれぞれに能化 する地蔵菩薩がいますことから六地蔵の名がおこったそうです。お地蔵様は、この世の中にただ一人だけでも悩む苦しむ人がいるかぎり、街頭に立ち、四十二種類の姿に分身して 、私たちを救ってくださいます。また、十二の誓願をたて、私たちが、悩み苦しんでいると飛んできて身代わりに苦しみを引き受けてくれます。
六地蔵は、持ち物によってどの世界を担当するのか分かります。錫杖(しゃくじょう)は地獄の世界、如意(にょい)は餓鬼(がき)の世界、数珠(じゅず)は畜生(ちくしょう) の世界、何も持たず合掌(がっしょう)している姿は修羅(しゅら)の世界、香炉(こうろ)は人の世界、衣服は天の世界を受け持ちます。
当山の六地蔵は、すべて貞享元年(1684年)と彫ってあり、江戸五代将軍の徳川綱吉の時代につくられました。一体一体亡くなられた家族の供養(くよう)のために寄付された もので、六地蔵のそれぞれに戒名(かいみょう)と施主の名前がほられています。

薬師堂および本尊薬師如来
本堂と同じく薬師堂も大正時代の関東大震災で大被害をうけ、再建もままならない状態がつづき、仮小屋を建て、本尊を安置いたしました。長らく、そのままでしたが、昭和五十二年 に再建されました。
本尊の薬師如来は「薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)」ともいわれ、仏の世界では「大医王仏(だいいおうぶつ)」俗世界では「薬師様」と呼ばれています。 日本では、仏教伝来とともに信仰され、聖徳太師が、作られたといわれる薬師三尊像が現存しております。
薬師如来は、その名の通り病気を治してくださる仏様として信仰をあつめており、当山でも毎年一月八日の初薬師の日には、その年の無事息災(ぶじそくさい)を祈って 「大護摩供法要」が営まれております。

地蔵堂(じぞうどう)
薬師堂の脇にあるのが、地蔵堂です。地蔵堂の中には、中央に地蔵菩薩、その左右に弘法大師(真言宗の開祖)の石像がおまつりしてあります。
お地蔵様は、日本では昔から大変親しまれている仏像で、四つ角や峠道、寂しい森の小道などにおまつりしてあります。
お地蔵様の霊験物語は、各地に多くありますが、当山のお地蔵様は、昔から「いぼとり地蔵尊」として信仰されております。このお地蔵様に願をかけ 、真言をとなえ、御宝前の石でその「いぼ」をさすると、不思議に「いぼ」があとかたもなくとれたということです。女の子が年頃になっても「いぼ」に悩まされることなく美しく 育ってほしいという親心から信仰されたということです。
お地蔵様は、大悲代受苦(だいひだいじゅく)と申しまして、私たちの苦しみを身代わりになって受けてくださる有難い仏様です。

山門(さんもん)
山門はおそらく、十八世紀後期につくられたと思われます。禅宗様四脚門で、門内上部に特色があります。もとは茅葺(かやぶき)の屋根でしたが、現在は瓦葺(かわらぶき) となっております。

(泉光院の資料を転載しました。)

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