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大長寺訪問記

2004年9月14日


鎌倉市岩瀬の「浄土宗・大長寺」を、平成16年9月14日に訪問しました。 お天気の良い、秋日和には程遠い気温30度で湿度の高い日でした。

大長寺は、鎌倉女子大学に近く鎌倉街道にほぼ面し、大船駅から岩瀬住宅経由鎌倉湖畔循環バスで砂押橋バス停下車、 鎌倉街道を鎌倉女子大方面へ徒歩5分ぐらい右側少し入ったところに山門が見えます。

所在地 : 鎌倉市岩瀬1464



朝晩は、暑さも和らぎ虫の声が聞かれる初秋の季節(9月14日)ですが、朝から気温も上がり湿度も高く、 ご住職にお時間を頂いた午前10時の30分前に、私たち編集子は山門前で落ち合いました。

汗の静まるのを待ちながら、静かな境内の風景を眺め大きな銀杏の木に沢山の実がなっているのを仰ぎ見ながら、お約束の時間を待ちました。
12〜13分前に庫裡のチャイムを数回押しましたが気配がなくさて?と、先ほどから電動草刈り機で芝の手入れしている庭師さん?にお寺さんの様子を伺おうと、お仕事中のところお声を掛けたところ、「私が住職です」と、ご挨拶されびっくりしました。

大長寺山門

▲ 大長寺山門
石段

▲ 幅10mほどの大きな石段

宝蔵
▲家康公とその父松平廣忠の
位牌が祀られている(宝蔵)
お仕事中のご住職に、お時間を頂き客殿でお話を伺いました。
開山は感誉存貞で中興開山は暁誉源栄。
開基は北条綱成で、天文17年(1548年)5月の創建です。

寺号は元「大頂寺」といいましたが徳川家康の寄進状に「大長寺」とあるのでそれから今の寺名になりました。
元の寺号「大頂寺」は当寺の開基が玉縄城主の北条綱成で、 その奥方の戒名が「大頂院殿」というところからきていますが、徳川家康が「山号」が『亀鏡山』なら『大長寺』が似合う」といって寄進状に「大長寺」と書いたことから 改まったと伝えられています。

秀吉の小田原攻めの際、玉縄城は徳川の軍勢で包囲され、この近くも家康勢の現地調達で食料などが召し上げられ、農民が困っていたのですが 中興の祖「暁誉源栄」(4代住職)は、岡崎の松平家菩提寺「大樹寺」で修行をしていたため、家康公とは顔見知りで地元住民と嘆願に出かけ、「非戦闘員の家を荒らしてはならない」という触書を出すことに成功したのです。

その後家康が江戸に移った後も、家康公が通りがかった際には藤沢まで家康公に会いに行くなど、交流が続き、徳川家が菩提寺を「増上寺」に変えた際には、家康公とその父松平廣忠の位牌を作らせてもらいました。
これら位牌をお祀りしてあるのが「宝蔵」です。

家康公から愛されたということで、お寺の門前に「下馬」の高札が認められました。この高札は、作るときの細かい規定があり、大きさ・高さ、さらに文字の太さや書体にいたるまで細かい規定が定められています。

徳川家康の時代、歴代住職が家康から信任・愛され、家康直々の来訪も受けたことがあるそうで、その際お駕籠が横になって上がれるように広い大きな階段にしたのではないかと伝えられています。
絵図
▲境内絵図
お手植え銀杏
▲家康お手植えの銀杏の木

藤沢市渡内に、福原さんという、ご先祖に徳川家と関係のあった方がいらっしゃいます。
そのご先祖が絵師に調べさせ、相模の国で徳川家と関係のあった史跡をまとめさせ、後に「有隣堂」が復刻したのが「相中留恩記略」です。(福原高峰撰 長谷川雪堤画)この本の巻之十九(p366〜p367)に当寺の絵図が掲載されています。
縁起に記したパンフレットの絵と似ているでしょう。
徳川家康お手植えの銀杏の木も、階段を上がった右側にあります。お手植えの木を維持管理するのは大変です。

本堂は、明治15年12月類焼しました。近所の餅つきの火が茅葺の屋根に燃え移ったのかのかもしれません。
明治43年9月に再建されました。焼失前は九間四方だったのが七間 四方になったので、元の位置から右へずれたようです。

ご本尊の阿弥陀如来像は、室町時代の作ですが両脇侍は明治の作です。本堂焼失のさい、ご本尊だけ避難させるのに精一杯だったのでしょう。

写真集の北条氏綱夫人木像(鎌倉市指定文化財)は「朝倉の女の像」ともいわれ、当時女性は実家の名で呼ばれていたので「朝倉氏」から嫁に来たので、そう呼ばれていたのでしょう。 女性の服飾史の貴重な資料だそうです。

手入れの行き届いた芝生の中庭に、珍しい「ハツユキカズラ」が綺麗に色づいているのが(6月ごろが一番良いとか)眺められる客殿でお話を伺い、最後に北条綱成夫人の墓・北条一族の墓・ 歴代住職の墓などを、ご案内していただきました。


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