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成福寺訪問記

(2003年3月25日)



今回のお寺さんは、”浄土真宗本願寺派・亀甲山法得院成福寺“。

3月の終わりにしては寒さが残る雨の日でした。
”成福寺”は、JR大船駅東口を湘南モノレール沿いに進み、
三叉路を左(小袋谷新道)に歩き、
レイウエル鎌倉手前の信号を右前方に進むと、
横須賀線踏切の左側に山門と本堂が見えます。
(大船駅から歩いて15分位)



文化9年(1812年)の親鸞上人旧蹟の碑を左に見て茅葺の山門を入ると、正面に本堂、右に"門信徒会館”、 左に六地蔵が安置され、その奥に大きな植木に囲まれて忠魂の碑があります。

お忙しいご住職に、お時間を頂き門信徒会館2階の執務室でお話を伺いました。

成福寺山門
門信徒会館
(成福寺山門) (門信徒会館)

山門は、江戸時代の初め頃、今の鎌倉市山崎の領主であった、 奥平氏の娘”崇高院”がこのお寺の教えを受けたときに屏風などの宝物と一緒に自分の家の門を寄付されたものとか。

門信徒会館は、元の庫裏跡に平成15年2月に新築完成しました。
門信徒会館の2階には色々な行事が出来るホールがあります。

浄土真宗には、十の派がありますが当寺は本願寺派(西本願寺)です。
(全国に浄土真宗の寺院は数多くありますが、鎌倉には成福寺一ヶ寺しか無い理由を伺いました。)

それは、小田原北条が、浄土真宗の寺院の本堂が平地に建ち、その本堂が挙兵の場所になることを嫌って迫害したため、各寺院は相模から武蔵や三浦に場所を移したからだそうです。
浄土真宗の三浦組のお寺には、昔、鎌倉にあったというお寺がいくつかあり、今でもおつきあいをしているそうです。
一方、 成福寺は、開基が鎌倉北条家であり、伊豆韮山に移った時期もありましたが、 小田原北条に鎌倉に戻るように請われこの地に戻ったと伝えられているとのことです。

開基沙門院泰次が修行した亀の窟 本堂裏山に成福寺開基鎌倉幕府三代執権北条泰時の子泰次が"沙門院泰次入道"と名乗っていた頃、こもって修行した「亀の窟(かめのいわや)」といわれる岩屋跡があります。
現在は写真のように危険防止のため柵があり立ち入り禁止となっています。

  忠魂碑 山門を入った奥左の樹木におおわれて、東郷平八郎書の忠魂碑があります。
当初建立されていた場所は、現在の鎌倉市立小坂小学校運動場の道路側(昔の正門を入った右側)でしたが、戦後米軍の指示で撤去を求められ、この石碑を作る際当時の成福寺住職が石の手配等東北まで行ったご縁で、成福寺の境内に移設されることになったそうです。
(当時のことで深夜に移設作業をしたともいわれています)

成福寺は、明治時代村役場になっていて本堂の一部を使い、村会や郡会の議場も兼ねていたそうです。
成福寺はこのあたりの村役場の発祥の地ということになります。

写真集の「木造虚空像菩薩座像」(門信徒会館に安置)は室町時代のものといわれ鎌倉では珍しく、この像のお腹には昔の人が供養やお祈りのために納めた仏像や子犬の彫り物、文書等が収められているそうです。

住職
副住職
(住職) (副住職)

成福寺は、毎月一日に法座を開いています。
03年4月1日も午後一時半より、副住職の「正信偈(しょうしんげ)」のあと、住職の法話があり、多くの信徒が静かに熱心に聞き入っていました。

成福寺本堂裏の墓地に幹周り2M程の柏槙(ビャクシン)があります。(鎌倉市指定・天然記念物)
この名木はお寺の長い歴史を見守ってきたことでしょう。

  聖徳太子像 親鸞聖人が敬っていた聖徳太子像(像のない場合は掛け軸)は、浄土真宗の寺院には必ず本堂のご本尊に向かって右側に安置されて居るそうです。
成福寺でも、寺宝の聖徳太子像(鎌倉市重要文化財)が、祀られています。
このページの取材時には西本願寺の御影堂平成大修復事業記念の 「西本願寺展」(東京国立博物館)で公開されていてましたが、戻ってこられたので太子像を撮影させて頂きました。
(聖徳太子像)

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