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二重門(にじゅうもん)は、二層建ての門で、
初層(一階)と上層に屋根のあるものを指します。
(初層に屋根のない楼門と区別されます。)
市内では、建長寺、円覚寺、光明寺の各山門の3件ですが、
ほかに、復興計画中の英勝寺の山門(部材で保管中)があります。

二重門の構造 (モデル:建長寺 山門)
下の小さな図(サムネイル)にマウスポインターをあててください。



建長寺 山門


  現在の建長寺山門は、安永四年(1775)の再建ですが、開山蘭渓道隆(大覚禅師, 1213-78)の五百年忌に当たり建立されたものだそうです。
  山門は当然建長寺の創建当時からあったとされていますが、具体的な年代を示す記録はないようです。その後再建と火災を繰返しました。現在の山門は十八世紀後半の鎌倉の代表作といわれています。


  門の形式は桁行三間、梁間二間、柱は太く、上層は、正面の軒に唐破風をつけた入母屋造りで、荘重な印象を与え、規模の大きな禅寺にふさわしい山門です。
  下部は柱のみの吹放ちで、扉や壁もないことから、本来の門としての機能というよりも象徴的な建造物の性格が強いとのことです。



  初層は、正面(左右の柱の間)が約13メートル、奥行き(前後の柱の間)は約8メートルです。 柱は約60センと太く、上下を丸めた粽柱(ちまきばしら)です。 初層内側の上部は、柱を太い虹梁(こうりょう)でつなぎ、その上に大瓶束(たいへいづか)をのせて上層を支えます。重量感のある虹梁、大瓶束は見所の一つです。
  軒周りの斗キョウ(木共)は出組(一手)で、各柱の上とその間にも配置され、詰組(つめぐみ:柱の上だけでなく、その間にも組み物が配されているもの)で、これも禅宗様です。



  上層は、桁行が約12メートル、梁行は約7メートルで、高欄をつけ、正面中央には、双折棧唐戸両開、その脇に火灯窓(かとうまど:花頭など色々な書き方があります)がつきます。
  軒周りは、尾垂木と挙鼻(あげばな)のついたニ手先斗キョウ(二段に出る)で、こちらも詰組です。

  正面には、中央上部に唐破風を設け、大きな扁額をつけます。縦約4メートル、横約2.6メートル、「建長興国禅寺」とあります。十一世の大通禅師(1306年没)の筆によるものだそうですが、寺伝では後深草天皇(1243-1304)とも言われています。
  唐破風は全体の意匠であるとともに、この大きな扁額を収めるためのものとのこと。

  上層内部には、釈迦如来坐像、五百羅漢、十六羅漢像などを安置しています。
  山門の前の立て札には、開山様の言葉「福山は揮(すべ)て松関を掩(と)じず、無限の清風来たりて未だ已まず」(あらゆる人々(修行者)に門を開放していること)とあります。



円覚寺 山門


  円覚寺山門は寺の創建と同じ年、弘安五年(1282)に建てられました。その後火災などで再三失われましたが、創建五百年を記念して、天明三年(1783)に再建されたとのことです。
  桁行三間、梁行二間の入母屋造りで、基本は当然のことながら禅宗様です。
  規模は建長寺の山門の八割強で、唐破風などを除いて、建長寺の山門と類似した点が多くあります。

  初層は、正面の左右の一番外側の柱の間が、約11メートル、奥行きは柱の間で約6.4メートルです。中心にある太い柱は約48センチです。

  初層は吹放ちで、四半敷の基壇に立ちます。柱は上下に粽があり、上部を虹梁で結び、上に大瓶束をのせますが、これも建長寺の山門と同様です。



  上層は、擬宝珠高欄をめぐらし、伏見上皇(1265-1317)の筆による「円覚興聖禅寺」の扁額を掲げます。その下正面は、双折棧唐戸で、両脇には、火灯窓があります。この窓は普通にみられる釣鐘のような形をした窓枠とは違います。火灯窓の一種ですが、眼像窓(げんじょうまど、げじょうまど)と呼ばれるものだそうです。
  上層の扇垂木や和様の長押を用いている点などは建長寺の山門と異なるところです。


光明寺 山門

  光明寺の山門の建設は弘化三年(1846)に計画(勧進)され、その後完成したものです。市内では一番大きい門ということになります。 (建造物としても大きく、建長寺の法堂、妙本字の本堂、鶴岡八幡宮の 社殿などと並びます。)

  下層は柱が正面に六本あり、五間三戸の二重門です。 初層は正面桁行約16メートル、奥行き7メートル強です。

  初層は柱に粽があり、組物も詰組で禅宗様ですが、板扉や壁板が横張りなどの点では和様であることから、下層は和様、上層は禅宗様ということが強調されることがあります。   





  上層は、柱に粽があり、壁板も竪(縦)張りで、棧唐戸もありますので禅宗様です。斗キョウは三段に出る複雑な三手先(みてさき)です。尾垂木の断面が五角形であることも禅宗様です。
  上層内部には、釈迦如来、それを囲んで四天王、両脇に十六羅漢が安置されています。(普段は非公開ですが、10月のお十夜の時などには公開されています。)
 
英勝寺 山門  (写真はすべて解体前、旧地にあったときのものです。)


   英勝寺山門は、寛永二十年(1643) 高松藩主松平頼重により建てられたもので、現在(平成17年) 解体され部材として境内に保管されています。部材のまま神奈川県の重要文化財に指定されていますが、これはあまり例のないことです。
   英勝寺には、仏殿、祠堂、唐門、鐘楼があり、すべて県の重要文化財です。このように江戸初期の建造物が揃っているのは全国でもほとんどないといわれています。


   山門は、正面三間(約6.4メートル)、奥行き二間(約3.8メートル)です。
   下層は出組み(一手)で軒を支えますが、軒下の蟇股には龍、虎、馬、鳥、鯉、翁などが彫りこまれています。

   上層は、正面約6メートル、奥行き約3.5メートル、高欄を巡らし、正面に4つ、両側面にそれぞれ2つの眼象窓(げじょう、又は、げんじょうまど)と呼ばれる窓をつけます。軒は二手の出組みで支えます。
   屋根は銅葺きで、仏殿同様軒反りがなく直線で、瓦棒がつきます。
禅宗様式を基調としながらそれを抜け出したこの時期の自由さを表しているといわれています。

   最後に、英勝寺と山門建立の背景に触れさせていただきます。
   英勝寺は徳川家康 (1542-1616) の側室のお勝の方(1580頃-1643: 出家して英勝院)が、先祖である太田道灌の屋敷跡に創建したもので、徳川頼房(1603-61: 水戸徳川家の初代)の娘、小良姫(さらひめ)を玉峯清因(清因尼)と名づけ開山に迎えました。話は大分さかのぼりますが、開山清因尼の父である頼房は幼少時にお勝のかたの養子となり、のちに水戸徳川家を興し、その祖となったかたです。
   その後(江戸時代には)水戸徳川家の姫君が代々住職をつとめた由緒あるお寺です。現在は鎌倉で唯一の尼寺となりました。江戸初期の建造物の揃った、また季節ごとに色々な花が楽しめるお寺として多くのかたが訪れます。

   さて、山門を建立した松平頼重は水戸徳川家の祖徳川頼房の長子で、水戸黄門で知られる徳川光圀 (1628-1700) の兄です。当初の伽藍の多くは頼房が中心になり建立したとみられていますが、山門は頼重によるものです。
   父頼房頼重が生まれたときに、頼房の兄である尾張紀伊徳川家に嫡男がおらず、遠慮して頼重を葬らせようとしたそうです。しかしながら英勝院の計らいで誕生したといわれ、京都天龍寺の塔中で育ち出家するはずでした。(そのため、また頼重が病弱のためともいわれますが)頼房光圀に跡を継がせました。頼重はその後大名となり、寛永十九年には讃岐高松十二万石の城主にまでなりましたが、それは英勝院の亡くなる直前のことでした。
   その年の八月に英勝院が亡くなり、翌二十年の一周忌には、頼重は父頼房、弟光圀らとともに英勝寺を訪ねています。その直前から頼重の手で山門の建立が始まりました。英勝院に対して特別の思いがあったと思われます。

   なお、徳川光圀は自からの子ではなく、頼重の子綱条(つなえだ)に跡を継がせたためその後の水戸家頼重の子孫が継ぐことになったということです。

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