古建築のトップにもどる


|  境内案内  | 歴史 |
写真1 写真2

[ 寺号 ]     海 光 山 慈 照 院  長 谷 寺 (浄土宗)

[ 所在地 ]
     長谷寺へは、江ノ電の長谷駅から北へ、5分ほど進み、最初の交差点を左に曲がると、 長谷寺への参道で、暫く進むと山門、そしてお堂や背後の山が見えてきます。
     受付や駐車場はその左手にあります。

[ 長谷寺の古建築 ]
     輪蔵を地図から見る場合は、下の図の該当する「白抜き文字」をクリックしてください。新たなページとして開きます。
|  輪蔵 |
ronzo
 
[ 境内案内 ]
     参道の正面に立派な山門がありあります。昭和の建立ですが、妻側をみると、親柱の上に、三斗に支えられた虹梁がわたり、その上に大瓶束が載り、笈形が両脇に配されていて、四脚門としては、市内で有数の堂々としたものです。
写真3 写真4

     受付を通ると、池の並ぶ庭園があります。左に回るように振り返ると、「高山樗牛ここに住む」と彫られた石碑が立っています。高山樗牛 (1871-1902) は『滝口入道』の作者として、また美学・哲学・文明批評などで知られていますが、この地に1901年より1年ほど住んだことが脇の立て札に記されています。
写真5 写真6

     池は、左から妙智池、放生池と並び、鯉がゆうゆうと泳ぎ、山際には滝もあり、回遊しながら、季節の花や木々を楽しむことができます。
写真7 写真8
写真9 写真10

     さらに右手には弁天堂があります。その前には慈光殿があり、中で写経をすることが出きます。その先には 弁天窟と呼ばれるほら穴があり、右の穴から入り、左から出るようになっています。
     こちらは、弘法大師が参籠し、感得して弁財天の尊像を彫ったと伝えられていますが, この像は宝物館に収蔵されています。弁天窟の壁面には弁財天と十六童子が彫られ、 祀られています。
写真11 写真12
写真13 写真14

     十一面観世音菩薩の祀ってある本堂のある一段高いところにへ登る石段の途中に、地蔵堂があり、福壽地蔵が祀られ、ご供養のための小さなお地蔵様が並んでいます。
写真15 写真16

     高台にあがるとまず右手に、鐘楼がありますが、1984年に作られた新しいものです。鎌倉時代に造られた、文永元年(1264)の銘のある梵鐘は、国の指定文化財(重文)で、こちらは宝物館に展示されています。
本堂の右手は阿弥陀堂です。祀られている阿弥陀坐像は、高さ2.8メートルで、源頼朝の厄災を防ぐために像立されたと伝えられ、「厄除阿弥陀」の名で多くの方の信仰を集めています。
写真3 写真4

     正面に、十一面観世音菩薩が祀られている本堂があります。

     本堂の十一面観世音菩薩立像は、高さ約9.2メートルで、台座をいれると12メートル、木造では最大級のものです。右側には、弘法大師坐像、二十九世善誉耕美上人坐像が祀られています。
写真3 写真4

     本堂の左手から、宝物館に続きます。宝物館は2階にまずあがります。

     観音三十三応現身と呼ばれる、いろいろな姿をした三十三体の観音の立像 (市指定) があり、さらに、徳道上人坐像、如意輪観音坐像、大黒天立像 (応永十九年(1412)、県内最古) 、長谷寺縁起絵巻 (県指定文化財) などが陳列されています。

     1階におりると、背の高い板碑2点、梵鐘 (文永元年, 1264) は「長谷寺」の寺号が確認できる最古のもの、大きな十一面観音懸仏3点、おなじく大きな鰐口1点が陳列されています。

     宝物館の次は、大黒堂です。大黒天は「出世開運授け大黒天」として知られ、鎌倉・江ノ島七福神の1つです。
写真21 写真22

     大黒堂の左から斜面に沿って散策路があり、あじさいの開花の時期には大勢のかたが訪れます。
写真23 写真24

     大黒堂の前に仏足石があり、さらに奥には、輪蔵を納めるお堂があります。(建造物紹介へ)
写真25 写真26

     近くに、鎌倉ペンクラブによる久米正雄(1891-1952)の胸像が立っています。小説家・劇作家で、鎌倉ペンクラブを結成するなど、活躍しました。一時長谷に在住し、関東大震災では長谷寺に避難し助かったとのことです。
写真27 写真28

     海側には展望台があり、由比ガ浜や材木座の海岸、逗子・三浦方面の山並などを眺めることが出き、海光庵でゆっくりとお食事もできます。
写真29 写真30


 

[ 歴史 ]
     お寺の言い伝によると、養老五年 (721) に徳道上人により観音像が造られ、16年後にこれをこの地にお祀りしたのが始まりとされています。

     徳道上人は徳が高い僧です。かねてから立派な観音様を造りたいと願っていたところ、山中で楠の霊木を見つけましたので、2人の仏師に託し、1本の木から2体が造られました。

     1体は大和の長谷寺に本尊として祀られ、他方は有縁の土地での衆生の救済を願い、海に奉じられました。

     それから16年の年月を経て、天平八年(736)、現在の横須賀市長井に顕れました。このことを耳にした聖武天皇は、藤原鎌足の孫、房前 (681−737) を遣わし、この地に宇堂を建立、観音様を祀り、房前を開基、徳道上人を開山として創建されました。

     一方、資料としては、市内有数である梵鐘に文永元年 (1264) の年号があることや、銅造懸仏(国指定文化財)、大きな鰐口 (県指定)、背の高い板碑 (市指定) などから、鎌倉時代には大規模な寺院であったと考えられています。

     徳川家康などの支援もあり、江戸時代には、庶民の信仰のお寺として、関東三十三か所観音霊場めぐり (杉本寺を出発点とし、逗子の岩殿寺、大町の安養院、そして4番目) の霊場として栄えました。

     また、この地を舞台に、多くの文学・歌舞伎・浄瑠璃が創られました。明治以降も文学者・文化人の活躍の場として知られ、現在に至っています。

このページのトップにもどる
古建築のトップにもどる