復興をめざす英勝寺山門



山 門(写真はすべて解体以前のもの)
  英勝寺水戸徳川家の祖徳川頼房の養母となった英勝院が開基となって、自らの菩提寺として創建しましたので、伽藍の多くは徳川頼房が中心となって建立したと見られます。
  ところがが山門だけは、徳川頼房の子松平頼重が建立しています。
寛永十九年(1642)五月には、英勝院の計らいもあって、頼重讃岐高松藩十二万石の城主になりました。その八月二十一日に英勝院は逝去し、翌年の一周忌には、頼房と子の光圀頼重らが英勝寺を訪れています。

   山門一階 正面左側
  英勝寺に現存する山門棟札によれば、その直前の寛永二十年八月十六日に、山門の造営が頼重の手によって行われたわけで、頼重英勝院への深い思いがしのばれます。

    向かって左側面
  山門は、手の込んだ見事な建物で、正面から見ると桁行(けたゆき)という柱の間が3つに分かれ、横から見ると梁間(はりま)という柱の間が2つに分かれています。
  二階二重門で、一階の軒下には蟇が足を広げたような蟇股(かえるまた)に、竜や虎とか鳥などが巧みに彫り込まれています。
 軒下の蟇股の彫物 (竜)       (虎)      (鳥)



   二階 高欄と眼象窓
  二階には高欄を巡らし、眼象窓(げじょう、又は、げんじょうまど)という形のしゃれた窓などは、禅宗様式の建物でありながらそれを抜け出したこの時期の自由さを表しています。

  英勝寺の他の建物と同様に、屋根の軒反りがなく、軒先がまっすぐになっているのも貴重です。


      直線的な軒

      扁    額
  この山門には、後水尾上皇(1596〜1680)の宸翰に基づいて作られた扁額が掲げられ、表に「英勝寺」、裏に「寛永廿癸未年四月十日」という銘がある立派なもので、現在鎌倉国宝館に寄託されています。

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