頼朝没後八百年

3月の絵  源頼朝が亡くなったのが正治元年(一一九九年)一月十三日。それから数えて今年一九九九年は丁度八百年になる。鎌倉というところは、京都、奈良と並んで三古都と呼ばれているが、朝廷があったわけではないので他の二都市とは性格が異なる。然し頼朝という、今で言えば総理大臣にも当るような人が、鎌倉を政治の中心地として幕府を開き、以後およそ一五〇年もの間、日本の政治、経済を行って来たのだから、鎌倉というまちにとっては、偉大な人物として顕彰されて当然であろう。鎌倉市を主体に、商工会議所・観光協会・青年会議所・同人会、それに源氏の氏神である鶴岡八幡宮も加わって、一年にわたっていくつものイベントの計画が進められている。
 頼朝と言うと、誰もが直ぐ義経の名を思い浮べるし、悲劇の文人将軍実朝のことが連想される。そして腰越まで戻っていながら、頼朝に追われた義経や、公暁に暗殺された実朝にドラマチックなものを感じ、共感する人が多く、対比的に頼朝が冷徹な権力者として捉えられているのが人情のようである。古今東西、為政者が大衆の共感をかちとることは仲々難しいようである。
 然し、頼朝の治世を見ると、武士でありながら、政治の体系づくり、都市づくり、寺院の建立を始めとする文化への関心の高さなど、昭和以降の今日の政治家たちから見ると、はるかに優れた人物とお見受けする。
 今日の鎌倉は、頼朝の時代を原点とし、明治の新しい日本を築きあげた先人たちの努力によって築きあげられたと言っていい。今、このまちの抱える課題は山ほどある。次の一〇〇年が終わる時、どんな鎌倉になっているか、明治の先人たちには及ぶべくもないにしても、自分のまちである鎌倉に私たちが何をなしたか、せめて一〇〇年後に語られるようなことを残したいものである。

鎌倉ケーブルテレビ広報誌
「チャンネル鎌倉」
平成11年3月号掲載
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