にっぽん再生

 私は、無学のせいか、新聞を読むことが、大変勉強になっている。若い頃は、スポーツ欄と県版というか地元情報に眼を通すぐらいだったが、今は一面から始めて全頁めくって見ることにしている。テレビがあるから新聞はいらないという若いご家庭もあると聞くが、それも時代かもしれない。新聞も、××紙は右寄り、○○紙は左寄り、などと偏向を言われるが、記事を書くのは人間だから、いくら公正中立を旨としても、色合いが出るのも止むを得ないのであろう。
 新聞に就いて論ずるために筆を執ったのではない。かねてから心にかかっていたことが、新聞紙上に特集のような形で取り上げられていたのに触発されたにすぎない。読売新聞の"異議あり 匿名社会"を読んで、同感したことがあったからである。
 個人情報保護という問題が、いつ頃から法律化されたのか、不勉強でよく知らない。第一法律の条文を読んだこともない。唯、実生活の中で、この法律が持ち出されて、へえー、そうなの、いけないの、と待ったをかけられたことはしばしばある。そもそも、個人情報なる日本語は、いつ出来たものか聞きたい。私たち世代の感覚では、情報ということばは何か秘密めいて、スパイ情報とか、情報将校とかに使われていたように思う。まあ時代と共に言葉も変ることもあるのだから、情報というあまり美しくない言葉が一般化するのも仕方ないが、要するに個入の履歴のことで学校へ入る時も就職の時も、本人の側は否応なく書かされて提出するものだ。別に受け取った側に情報を保護して秘匿してもらおうと思っている訳ではない。私は何のたれべえ、男、どこの生れで、両親はこれこれです、誰に言っても困りもしなければ、恥ずかしくもない。寧ろ、自分の出自(しゅつじ)に誇りを持つべきであり、やみくもに秘匿してもらう必要はない。
 こういう法律を作ることの根本にあるのは、個人の情報を悪用する人がある、という前提に立っているからだ。法は善人のためにつくられたるものに非(あら)ず、ソクラテスの言葉だそうである。事実、名簿の流失という事件は枚挙に遑(いとま)がない。それも何十万、何百万の単位の個人情報が、である。古来、隠れたるより見(あらわ)るるはなし、という戒めがある。秘密にしていることのほうが、かえって人に知れやすい、という意味で、中国の四書のひとつ、中庸にあることばだ。隠しごとをしなければならないような行為は慎(つつし)めというという教えともいう。(故事ことわざ活用事典、創拓社刊)勿論ケースによって、秘匿したり、匿名にして出すべき場合もある。一律に、日常生活全体に規制をかけるという法律の在り方に問題があるのではないか。同じ職場に働く人のリストも作れない、同窓会の名簿も然り、というようなことは、人と人とのつながりという人間社会でもっとも大切なことがどんどん失くなって行く社会になることではないか。その特集記事の中に、団地の中の独居老人の情報が民生委員から提供されず、敬老会の招待状も出せないという、自治会長さんのことばがあった。何とも空しい、寂しいことばではないか。
 いつも思うことだが、この個人情報の問題ばかりではないが、人と人とのかかわりが稀薄になっている社会、その要因となっているものは、携帯電話やパソコン等の脅威的な普及による人間の孤立化、人間の生き方が内側に向いていく傾向に問題があるのではないか。社会に対する無関心、他人(ひと)に対するいたわりとかやさしさ、そういう人間本来もっているべき価値観が大きく変ってしまった、では片付けられない、現代社会の歪(ゆが)みを感じないではいられない。
 暗い、いやな話題やニュースが跡を絶たない。母親の、切断した首を持ち歩く少年、インターネットの画面上で知り合った自殺願望の男と自殺した若者、自衛隊員の機密漏洩、警察官の狼藝犯罪等、それこそ新聞を広げれば材料に事欠かない毎日だ。こんな乱れた現代を、美しい国日本にしたいと政治の主導者は叫ぶけれど、われわれ国民は現実の世相の中に身を沈めていて、その美しい夢を共有する心を持てるだろうか。対症療法的な法律を制定するだけでは、根源的な治癒(ちゆ)は得られない。戦後60年間、高度成長、バブル崩壊、そして景気回復と、社会の大きな変動のうねりの中で失われたもの、日本人ひとり一人の心を、時間をかけてでもしっかり取り戻す、そういう大きな国の流れを作ることが、日本の再生のためにどうしてもやらなければならないことではないか。
 ひとりの為政者の力で成し遂げられるような、生やさしい問題ではない。
山内 静夫
(鎌倉文学館館長)

鎌倉ケーブルテレビ広報誌
「チャンネルガイド」
平成19年7月号掲載
▲TOP

Copyright (c) Kamakura Citizens Net / Kamakura Green Net 2000-2007 All rights reserved.