言わせて下さい

 又相撲か、と誠に恐縮だが、こう延々と八百長疑惑で週刊紙や新聞が騒ぎたて、果ては裁判沙汰にまでなろうと言うのに、根っからの相撲好きの私としても、黙っていられなくなった。
 大体年令と共に、思考の幅が狭くなるのか、頭の中に同じことばかり浮んでくる。別のことを頭に浮かべようとしても、何時の間にか逆戻りしている。つい最近、大哲学者梅原猛氏が、この八百長疑惑について週刊現代に一文を草しておられたが、流石成程と思えるご意見であった。八百長疑惑で相撲協会は告訴までしたから、春場所はガチンコ相撲が多くてよかったという。私もある種同感であるが、それ以外に少々他に言いたいこともある。
 私は、日本の相撲の世界の中で、八百長という言い方の是非はさておいて、どの取組もすべて力士が眞剣勝負しているかと言えば、これは非常に残念だがノーと言わざるを得ないのではないか。どなたでもお気付きと思うが、千秋楽の取組で、七勝七敗の力士は九分通り負けない。片八百長ということばをご存知か。つまり暗黙の諒解である。相撲の世界は、極端な閉鎖社会だ。日本相撲協会という大きな傘の中で、もとは同じ釜のメシ(この場合、チャンコと言うべきか)を食った仲間が、親方と呼ばれて力士を養成していくシステム、土俵へ上れば勝負は別と言っても、どこか仲間意識が抜けきれないのが人情というもの。私は、それが相撲の世界の根底にあるものと思っている。既に勝ち越している力士が、千秋楽に七勝七敗の星の力士には勝とうと思えないのだ。これこそが、日本古来の美徳である、譲る、という精神なのだ。それも、さりげなく、が望ましい。だからこそなおさら無言の負担となって相手の力士、又はその親方の肩にのしかかる。持ちつ持たれつ、貸し借りの世界なのだ。それをしも八百長とみるなら、近年は寧ろ薄れてきているのではないか。外国人力士や学生相撲上りの若手力士には、そんな古い意識はないと思う。従って週刊紙が取り上げているような八百長があるのかどうか、真偽はわからない。
 そんなことより寧ろ私は、三月場所の千秋楽の結びの一番と、朝青龍−白鵬の優勝決定戦の、二番の方が、はるかに夢を裏切られた思いが強い。立会い一瞬の間につく勝負でも、そこに深い意味を含む勝敗もあるだろう。しかしあの二番には、相撲のもつ品格も美も、そのかけらすら感じられなかった。この、二人が、日本の国技と言われる相撲の頂点に立つ二人かと思うと、暗然たる気持になる。しかし、希望はまだなくはない。今の日本人三大関には、出来るだけ早く引退して頂く。彼等も、自らの立場は十分承知している筈だ。琴欧洲など相手にするに足りない。朝青龍も、もう一、二年で下り坂だ。琴奨菊、豊ノ島、稀勢の里、豊真将らが、死物ぐるいで稽古して力をつければ、日本人力士の時代が来る可能性は十分ある。
 相撲そのものの話ではないが、もうひとつ言いたいのは、テレビのリポーターのこと。流汗淋漓、息も上っている取組直後の力士をつかまえて、右差しは狙っていたのですか、とか、あと二日、どう戦っていきますか、とか、一体どんなコメントが貰えると思っているのだろうか。そんな時、理路整然と取口を説明出来るような人間は、相撲の世界になんか生きていない。マイクを持つと、人間は傲慢になるのだろうか。自分の立場だけに立って何としてもしゃべらそうとする。何を言われても、「前へ出ることだけを考えて」とか同じことしか言わない力士、そっちの方がずっと上の人間に見える。これは相撲に限らない。他のスポーツの場合でも、見ていて不快になる。たしかにそれはキミの仕事かもしれないが、少しは相手の立場、気持ちを考えてみてはどうか、と言いたくなるのだが・・・。

 折から桜が満開に近づきつつあった。何もこんな一年に何日もないような爽やかな好日に、言っても詮なきことをくどくどと、と恥じいる思いだが、と言って無理に口を閉ざすのも腹ふくるる業(わざ)とやらで不満がつもる。まあこの稿が活字になる頃には、そろそろ五月場所の初日に近づこうとする筈。いくら文句を言っても、どうせ又テレビの前にかじりついているに違いないのだから・・・。
 五月の風−ビールに空豆、両国まで行かずとも、テレビ棧敷で極楽極楽−。
山内 静夫
(鎌倉文学館館長)

鎌倉ケーブルテレビ広報誌
「チャンネルガイド」
平成19年5月号掲載
▲TOP

Copyright (c) Kamakura Citizens Net / Kamakura Green Net 2000-2007 All rights reserved.