梅雨明けを待つ

 2006年の半分が過ぎた。
 ふりかえってみて、アッという間だったとも思えるし、日記を読み返してみると、随分時間がたったと思っていたことが、まだほんの3、4ヶ月前のことだったり、記憶がまちまちだ。白己流に総括してみると、公私ともに、かなり大きな出来事があった6ヶ月だったと言えよう。
 先ず第一に健康の問題である、数年前から悩まされていた、老人男子につきもの疾患の痛みが増大し、この数ヶ月日常生活に差しつかえるようになってきた。ふとした機会に、私の年若い友人の父が、私と同じ悩みをかかえていたが、ある治療で大変効果があったという話を聞いた。藁にもすがりたい気持ちだった私は、早速その先生を訪ねた。今まで何人かの医師にかかったが、一回も勧められなかった手術を宣告された。大袈裟でなく、今までの痛さは尋常ではなかった。
 40数年前、小津安二郎監督ががんに冒され、患部の激痛と闘っておられた時、痛さというものに指数があれば、50位の痛さだとか、今は80位痛むとか言えば解ってもらえるンだが、とそんな時でも巨匠はエスプリのきいたジョークを発して周囲の人を和ませようとされたのだろうが、それが逆にどれだけ強い痛みに耐えておられるのかがわかり、声をかけることも出来なかった、という話を聞いた。
 話が脱線をしてしまったが、私の場合も深夜めざめて、痛みをこらえて、トイレに1時間近くじっとしていたこともあった。四月の中旬、私は手術を受けた。3日間の入院で白宅へ戻った。十月程過ぎて、痛みは嘘のように消え去った。症状としてまだ十分に回復したとは言い難いが、何よりも気持ちが明るく、前向きになっている自分が嬉しい。ご心配頂いた多くの方方に、この誌面を借りて御礼申し上げたい。


 昨年秋より、鎌倉市は市の諸施設に指定管理者制度を導入した。要するに官から民へ、で民間会社にも管理運営のチャンスを与えるということだ。これまで財団法入鎌倉市芸術文化振興財団という組織が、鎌倉芸術館、鎌倉文学館、鏑木清方記念美術館の三つを管理運営してきたのだが、今回残念なことに、その中の最も大きな事業体である鎌倉芸術館が財団の管理運営から外れることになってしまったのだ。その結果、財団自体の組織の規模も縮小せざるを得なくなってしまった。4月1日から、新しい会社が芸術館の運営母体として動き出すためには、財団側は芸術館内にあった事務所とその人員を3月末日までに他へ移さねばならなかった。正月明けから3月末日まで、それはつらい、残念な業務を強(し)いられた。財団の規模も、人員の問題を含めて縮小を余儀なくされた。然し、財団の使命は、残された鎌倉文学館、鏑木清方記念美術館の指定管理者としての業務推進と共に、市民のための芸術文化振興のための活動を行わなければならないのだ。財団の運営に当たる理事会、評議員会も再編され、不肖私が理事長を務めることになった。ボヤいたり、コボしたりする暇(いとま)もない、大分以前にはやったことばだが、やるっきゃない、のである。鎌倉というまちを少しでもよくしたい、その心だけは失わずにいなければならないと思っている。
 こうして書いてみると、公私ともにどちらもつらい半歳だった。然し又考え方を変えれば、そのつらさをくぐり抜けて、いい結果を生み出すための半歳間だったとも言える。

 五月は、爽やかで心はずむ季節の筈なのに、今年はなんだか不順で、暖かかったり寒かったり、何を着たらいいのか迷うような日が多かった。そんな中で、5月13、14日に行われた、鎌倉アカデミア六十周年記念行事は、深く印象に残った。展示内容の充実、朗読、トーク、映画、それぞれに六十年前を懐しむ心があふれていた。戦後60年を振り返る行事はいろいろあるだろうが、私はあの光明寺の開山堂の中に入った時、不思議に空気そのものが鎌倉の終戦直後のようなものをひしひしと感じた。実行委員長の加藤茂雄君の表情には嬉しさと緊張感が漲っていた。アカデミア一期生としての矜持があるのだろう。又、このプロジェクトに係った人たちの多くは、当然ながらその時代を知らないのだが、鎌倉という所に、60年前にこんな青春の息吹きがあったことに、わがことのように気持ちの高鳴りを感じたのではないだろうか。
 鎌倉っていいまちだなぁ、近頃めったにお目にかからない、そんな気持ちにさせて貰った。
山内 静夫
(鎌倉文学館館長・KCC顧問)

鎌倉ケーブルテレビ広報誌
「チャンネルガイド」
平成18年 7月号掲載
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