味と人

 二十四節気に、啓蟄(けいちつ)、というのがあるが、人間も気候が暖かくなってくると、何となく気が晴れてくるというか、ふらりと外へ出てみたくなるものだ。特に日暮れ近く、春宵一刻値千金、ということばがあるが、それまで暖かだった空気か、夕方すっと澄んだ感じになって肌にかすかなヒンヤリ感を覚えるような、シャツの上にカーディガン一枚引っかけてみたくなるような、そんな時刻はたまらない。二、三十分散歩の真似ごとをするが、足は自然に灯りのついている巷(ちまた)の方向へ向いて行く。鎌倉は、飲み屋を除けば夜が早い。
 酒好きというのはしかたのないもので、ビール一本、同じ品で家の冷蔵庫で冷やしてあってもちょっと出掛けてわざわざ高価(たか)いのを承知で呑みにいく。うまいッ、これに限る、てなことを言っているのである。尤も、こういう愛すべき、愚かしき人種がいるからこそ、呑み屋たちも商売になるので、駅前のスーパーで買って家で呑めば、何十円安いなどと冷静に考える人が、どうも増えているようで、これでは景気回復も未だし、と手前勝手な意見を申し上げておく。
 呑む、食う、人生最高の愉しみである。酒を呑まない人でも、食うは共感して貰えよう。然し、年齢(とし)と共に、好み、というものは変わっていくようだ。変わらないのは、お店のもつ雰囲気、もっと言えば、そこの主人、若い人もいるから言いづらいのだが、ほんとうは、そこのオヤジの魅力、人柄と言った方がピッタリくる。足が向いて行くうちに、オヤジの顔が浮かんできて、頬がゆるんでくる、それが何とも言えない醍醐味なのである。
 いま私の好みの呑み屋は三軒。小町通り近くの、「尾崎」、「企久太」、それと大御堂橋を渡って左へ、住宅地を通り抜けようというところにある、「こやの」、この店は呑み屋と言っては失礼で、割烹と言うべき店、いつ行っても心もロも充たしてくれる。三店ともご主人は揃って若い。尾崎も企久太も、地のものを中心に新鮮な魚がいつも美味しい。尾崎はご夫婦で、奥さんがキビキビして元気がいいし、ご主人は黙々と調理場で包丁を握り、余計なおしゃべりはしない。誠実そのものの入柄は、好漢ということばがぴったりだ。企久太は、私が松竹の大船撮影所にいた頃の仲間で、定年で引いてから、息子さんのためにこの店を開いたのが縁でよく行く。今はもう息子さんに任せて、ご本人はあまり顔を見せないが、この仕事が好きであちこちで修行を積み重ねた息子さんに、四十年近く一筋に働き続けた証しのものを、すべてつぎ込んで、息子さんの人生を見守って行こうとする、私にはその父親の顔がいつも頭に浮かぶのである。息子さんの料理の腕は確かである。一つ、二つの注文も、見ているといつも丁寧に、面倒くさがらず、手順通り捌いて行くところは、どうして若い職人さんとはとても思えない落着きがある。この二店のご主人は、タイプは違うが、実に感じがいいのだ。私なんか、あまりものを深く考えたり、見極めようとしたりする人間ではなくて、直感的に好感がもてるかもてないか判断してしまうような単細胞なので、第一印象で50%以上決めてしまう。(おかげでどれ程痛い目に会ったか)。三番目のこやのは、全く普通のしもた屋風の家で、何度行っても見過ごして通りすぎてしまう。日本座敷二間に、テーブルと低い椅子を置いたしつらえで、二間をぶち抜いてテーブルを置いても八名がいいところ、そしてご主人もそれ位の人数が限界だという。お昼もやっているようだが、夜は一組の客で一杯と言う。色白のやせ形、初々しい感じのする青年で、いつもにこやかで人をそらさぬ。いま鎌倉で、これだけの京風懐石を供する店は、私は知らない。東京や京都で、かなり口のおごった方をお連れしても、いつも喜んで頂いている。ご主人にあまり書かないでくれと言われているのだが、ついわがことのように自慢したくなる。誤解のないように申し上げるが、これは、小生勝手の片思いで、あまたある鎌倉に関する書籍雑誌に名を連ねる名店は数知れず、どうぞそうした手引きをご利用頂きたい。私の好きな三店は、その中には多分ないと思う。
 実は、今回何故食べもの屋のことを書いたのかを、正直に白状すると、目下数ヶ月前より体調を崩し、わが愛する三店に呑みに行けない状態なのである。酒さえ呑まなきゃいいのだが、この馴染みの店で、酒を飲まないと言ったら、どうして、どこが悪い、と質問攻めに合うこと間違いなし、第一白分も、好きな酒も呑まずに、折角の料理を口にするなど冥利につきるし、口惜しすぎる。従って今回は、叶わぬ夢を、唾のみこんで我慢している、その腹いせと思って、お許しあれ。
山内 静夫
(鎌倉文学館館長・KCC顧問)

鎌倉ケーブルテレビ広報誌
「チャンネルガイド」
平成18年 5月号掲載
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