本がくれたもの

 松竹にいた頃の同僚だった太田哲生さんが、最近本を出した。「僕は、なんのために生きてきたんだ!」(清流出版刊)というタイトルである。太田さんは、宣伝部が主な職場だったが、昭和43、4年頃、映画製作本部というところで、私が企画部長、彼が芸文室長というポジションで、かなり親しい関係にあった。堂々たる体躯で、濃い眉毛、一見きつそうな感じだが、実は心やさしい人で、言葉数も少く、目立たず黙々と仕事をこなしていくタイブだったように思う。酒だけは滅法強かったと記憶している。職場が代わってからは殆ど交流もなく、少くとも二十年近くはお目にかかるチャンスもなかった。病気の子供さんがいて大変らしいという程度のことは耳にしていたが、今度この本を読んで、哲生さん(昔そう呼んでいたような気がするので)の歩んできた人生が、生やさしいものではないことを知って、言葉を失った。そして、何だか申訳ないような気がしてならなかった。
 ひとり息子の陽久(はるひさ)くんが、小学校5年のとき、突然歩行困難になり、東大病院小児科病棟へ緊急入院する。病名は小児腫瘍、難病であった。その日から、哲生さんと陽久くんの、いのちとの闘いが始まる。何回かの手術、長期入院を繰り返しながら、陽久くんは高校に進学し、更に大学受験を目指して前向きに生きようとする、その陽久くんを両親は勿論、東大小児科の医師たちも看護師たちも昼夜を間わず治療法に立向かってくれる。哲生さんは少しでもよりよい治療法はないものかと、全国の大学病院へ足を運ぶ、そんな中、妻君江さんの胃病が再発、余命3ヶ月以内と宣告される。更に陽久くんは、念願の大学受験を十日後に控え、三度目の入院となる。いくら闘っても闘っても、運命(さだめ)には抗しきれない。そして、十九歳の初夏、大学受験も出来ないまま陽久くんは世を去る。そしてその三月(みつき)後、君江さんも又46歳で亡くなる−−−。
 こんな苛酷な運命があるものだろうか。勿論この世の中には、或いはもっとつらい、悲しいこともあるかもしれない。然し、この哲生さんの書き綴られた記録の中には、父の母の、そして一人息子の陽久くんそれぞれの真実の心が、淡々とした日記のような記述の中に見事に浮び上り、描かれている。たった一人になった哲生さんが、家族を失ってから八年後のいま、思い起こすことの苦痛に堪えて、医師をはじめとした周囲の人たちへの感謝の心をこめて、この本を世に出したことに、私はほんとうに頭が下がる思いがするのである。
 昭和三十年頃、銀座に「おそめ」というクラブが誕生した。京都で小さなバアを経営していたおそめさん、本名上羽秀(うえばひで)さん、祇園の芸者あがりで、類い稀れな美貌と、この商売をやるために生れてきたようなまろやかな人柄で評判を呼び、花の銀座への進出を果たした。当時、映画の仕事に携わっていた私は、映画俳優や監督たちとよく「おそめ」に行った。著名作家や一流財界人が多く、そこは華麗な社交場であった。もう50年以上も昔のことである。
 そのおそめさんの人生に心をひかれ、年老いて余生をひっそりと京都で送っているおそめさんの許へ5年間通いつづけ、更にあらゆる資料を渉猟して、彼女の生きてきた姿を愛情こめて描いたドキュメント「おそめ」という本が、女性ジャーナリスト石井妙子さんの手で発表された。私も、石井さんとはこの仕事の取材の中で知り合ったのだが、作品を拝見して正直その力輌に舌を巻いた。勿論おそめさんを実際知っているという懐かしさのようなものはあるにしても、作者石井さんのおそめという人物へ注ぐまなざしが、過不足なく、世にありがちなヨイショのいやらしさなど微塵もなく、透明感のある人間像として描かれている。特に世に出るまでの幼少期の親子関係なども、丁寧に書いてあって好ましい。
 昨年末の上梓で、既に四刷りという売行きとか、結構なことだ。

この二冊の本を、同日に談ずることはどうかと思うのだが、どち らの作品も、人間の真実の姿をしっかり心に捉え、それがそのまま筆先からほとばしり出たような書き手の一途な思いが、まっすぐに私の心持に届いた。得(え)も言われぬ感情の戦(おのの)きがあった。
山内 静夫
(鎌倉文学館館長・KCC顧問)

鎌倉ケーブルテレビ広報誌
「チャンネルガイド」
平成18年 4月号掲載
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