二つの映画祭

 新宿発11時あずさ15号のグリーン車は、案外空いていた。久々に乗ったせいか、座席の坐り心地もよくなっているような気がした。最近飛行機の旅が続いていて、JRの特急の旅は何となく懐かしさがあった。茅野駅まで68分、これも随分早くなった。旅情に浸る間もない。茅野駅には、映画祭の実行委員のH氏が出迎えてくれていた。駅周辺の変りようにも眼を瞠(みは)る。この前来たのはいつだったろう。早いものでこの「小津安二郎記念 蓼科高原映画祭」も8回日だという。小津組仲間の川又昂(たかし)さんと評論家の川本三郎さんと3人でトークショーをやるのが、今回の仕事だったが、私が度肝を抜かれたのは、その会場となった市民館の素晴らしさだった。茅野市は人口56,000人、リゾート地蓼科高原の玄関口というだけの(と言ったら失礼かもしれないが)1地方都市が、これだけの大きさ、設備、斬新なデザインの市民の施設を持つことは容易ではない筈だ。市長の執念ですよ、実行委員のひとりが笑いながら言った。茅野市長矢崎和広さんは58歳、若さ溢れる2期目の市長で、5年位前からこの市民館づくりを心に秘め、そこで映由祭を盛大に行うという大きな夢を抱き続けてこられたと言う。矢崎市長は、幼少の頃、当時毎年蓼科高原に籠って脚本を執筆していた小津安二郎、野田高梧の両先生を直接見知っておられ、それ以来小津映画への思いが強く心を捉え、この蓼科高原映画祭をまちづくりの大きな柱として進めてこられたのだ。その夜のレセプションでの矢崎市長の、肩の荷を下ろしたような晴れやかな笑顔は印象的であった。勿論市長ひとりの力で出来ることではない。まちを歩くと映画祭の幟が立ち並び、ポスターが貼られ、多くのまちの人たちがこの映画祭を支えようとしている気持が汲みとれた。
 翌朝のドライブでの蓼科湖や横谷峡の眞紅の紅葉が、更に私の気持を和ごませてくれた旅であった。
 三重県松阪市飯高町、最近の市町村合併でこうなったが、もとは飯高町(合併前の人口は5、178人)、小津安二郎監督は宇治山田中学を卒業するが進学に失敗、止むなく同町の宮前小学校に代用教員として一年間を過ごしたというところだ。松阪駅からパスで一時間半はかかる山深いまちである。ここでオーヅ先生を偲ぷ集い"が行われたのが、これも昨年の12月のことで、私は始めて参加させて頂いた。ここでは小津先生と呼ばず、誰もがオーヅ先生と呼ぷ。方言であろうが、農村に相応しい何となく穏やかな響きである。今から80数年も前の、しかもたった、1年過ごしたにすぎない19歳の若者だった小津監督に、今日までこれだけの人々の熱い想いが寄せられているということは、殆ど奇跡的なことだ。すべては、柳瀬才治さんという当時の教え子の、90歳を超える老人の行動力によって生まれたことである。
 小津生誕90年(1993年)の頃より、その生誕地深川の長谷川武雄氏を中心に、全国小津ネットワーク会識(会員197名)というものが組織され、小津生誕百年のピックイペントを支える大きな力となったが、柳瀬さんはその仲間に加わり、ネットワークの人々や松竹の関係者、小津映画出演の俳優さんらに呼びかけ、飯高町ヘ一生懸命誘った。高齢の柳瀬さんの情熱が多くの人を動かした。今年も司葉子さんが前日アフリカから帰国したばかりというのに、当日の朝発ちで駆けつけた。2回目だと言う。その柳瀬さんは咋年9月、98歳で亡くなられた。オーヅ会は、次の村瀬会長が引き継がれたが、娘さんが父の遺志をつぎ、大会の運営に当られていた。まちの奥さん連中が総出で来場者や来賓のもてなしに当っていた。暖かい空気が溢れていた。
 小学生だった柳瀬さんを除けば、直接小津監督を知る人は、もう居ないに違いない。蓼科だって、市長さんを除けば、同じことが言える。その意味では、その人たちにとって小津監督は、はじめから永還の偶像なのだ。私たち先生と直接ふれあった者とは、次元の異る存在なのだ。そう思ったこともあったが、今は恥ずかしく思う。
 飯高町で柳瀬さんとお会いすることはもうできなかったけれど、柳瀬さんの心は、飯高町から消え去っていない。矢崎市長にしても、小津先生は市長としての矢崎さんの心にいるのではないと思う。矢崎さんの人生の中に生きているのだ。柳瀬さんにも矢崎さんにも、そういう人間の覚悟、のようなものを私は感じた。
 頭の下る思いであった。
山内 静夫
(鎌倉文学館館長・KCC顧問)

鎌倉ケーブルテレビ広報誌
「チャンネルガイド」
平成18年 2月号掲載
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