夏に想う

 7、8月、夏到来である。どんな夏か未だわからないが、この数年は冷夏だったり、去年のような記録破りの猛暑だったりと、異常気象が多い。程のよい、夏らしい夏とはどんな夏か、忘れてしまった。何れにしても、夏は好きな季節だから、災害さえなければ、多少の異常には眼をつぶろう。夏の思い出を、10大ニュース風にあげれば、第1位は1945年、8月15日の敗戦だろうが、大きすぎて枚数が足らないから、今回は敢えて省くことにする。
 確か1947年だと思う。突如かき氷屋を始めた。学籍はあったのだろうが、暇をもて余していた友達数名で、逗子の東郷橋の袂に、葦簀(よしず)張りの1坪そこそこの店とも言えぬ小屋をつくって、商売を始めた。JRの逗子駅を降りて海岸へ行く海水浴客のかなりの数が、その店の前を通ることは間違いなかった。ちゃんとした店構えの店がそんなにはなかった頃だから、白地に赤で氷とだけ書いた手拭い地の布きれがゆれ動いているだけの、おそまつ極まりない店でも結構客が入ってくれた。味をしめて翌年は、鎌倉の下馬の四ツ辻の右側手前角の果物屋さんの物置を借りて商売した。現在(いま)と違って海水パンツ一丁で駅まで歩いてくるような若者が多く、夕方の引揚げ時には客が溢れて待つ程の盛況だった。私はブッカキ氷をつくるので、片手に持った氷の塊を、先が銛(もり)のようになった氷かきで割っていて間違って掌を突いてしまい、どうしても抜けず、そのまま病院へ駆け込むようなハプニングもあった。その傷が今でも小さなひっつれのようになって掌に残っている。
 東京オリンピックが過ぎて、日本は高度成長の時代に入る。子供が高校に入る頃には、夏休みにどこか涼しい処へ出かけるようになっていた。家内の親戚の持っている河口湖のワンルームマンションを借りて、仲間3家族でテントより窮屈なゴロ寝で2泊位、1晩は湖岸の河原でのバーベキュー、それで中学上級か高校生の子供たちが十分愉しんでくれる、まだそんな時代だったのである。
 昭和39年(1966年)8月17日、前夜河口湖から帰った私は、午前9時半頃だったか、俳優の三上眞一郎君からの電話に、茫然ことばを失った。佐田啓二君の事故死の報であった。5年前の親友高橋貞二君の自動車事故死、前年昭和38年の師小津安二郎監督の死、すべてが一つになって私の頭の中をぐるぐる駆け廻った。暑い日だった。夕方その暑さも、日の傾くと共に薄れ行く中、無言の佐田君が田園調布の自宅に帰った。それからの6日間、22日の青山葬儀所での告別式まで、すべては佐田君との別れの時間だった。
 それから41年が過ぎた。生きている人は、否応なく世につれて変らざるを得ない。唯、夏に関して言えば、鎌倉の夏は、その頃程特別な季節ではなくなったように思う。今は、四季それぞれの鎌倉が、同じ比重で廻(まわ)っている気がする。特色がなくなったことなのか、山歩きに鎌倉の魅力が変ってしまったのか、よくはわからない。夏ということばに、何となく情熱的な、華やぐものを感じるのは、もしかすると年齢のせいかもしれない。
山内 静夫
(鎌倉文学館館長・KCC顧問)

鎌倉ケーブルテレビ広報誌
「チャンネルガイド」
平成17年8月号掲載
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