誕生日

 両親、兄姉4人と私(私は末子)計7人のうち6月生れが4人いる。母28日、次男15日、三男9日、私(四男)13日で、血縁ではないが、私の姉の夫、義兄15日とおまけ付きの6月生れ圧勝である。私たちの子供の頃は、戦争のせいもあったかもしれないが、誕生日祝いに、学校の友達を呼んだり、大きなケーキや部屋の飾りつけをしたりして、大パーティを開くような家などめったになかったから、時代も変ったものだ。大体、誕生日を祝うという習慣は、洋の東西を問わず、古(いにしえ)からあったのだろうか。釈迦の誕生会(え)(潅仏会ともいう)とか、キリストの降誕祭といった宗教行事が原点にあるのだろう。個人の家で、小さい頃から誕生祝いをやるようになったのは、やはり戦後の産物だろう。私自身、小、中学位までにそういう経験はない。
 戦後、わが一家は、長兄は戻らなかったが、他は義兄をふくめて男4人無事軍隊より戻りはしたが、すぐ順番に結婚し、夫々近くではあったが別所帯になった。母親は、いくつになっても、子供たちの顔を見ていたいものだ。そこで6月に合同誕生会をやることにした。母親が亡くなって30年以上たつから、随分古い話になるが、日取りはまちまちだったが皆集まった。わが家の家風は、パーティと言うよりは宴会、呑み会風になる。母親はお酒に酔って、ケラケラ笑ってほんとうに楽し相にしていた。その顔が忘れられない。三男の兄が、母より先に亡くなった。その翌年、母は交通事故でアッと言う間もなく、わが子の後を追った。
 母の死から10年がすぎて、父は94歳の長寿を全うして亡くなった。昭和も終わりに近い1983年の1月だった。父は7月14日、パリ祭の生れがご自慢だった。人に好かれるのか、誕生日になると、後輩たちが押しかけて、賑やかな宴会が度々あった。酒席がうまいと言うか、客の誰とでも同じように接する、あまり自分が主役ぶらないざっくばらんな人だった。7月半ば、大概暑い時だ、浴衣の腕まくりで、声も大きいし、若い者顔負けであった。
 本来父は、誕生日祝とか結婚記念日とか、そういう決まりごとは気にかけない質(たち)だ。好きな友、知人が来て一緒のテーブルを囲み、おしゃべりをするのが好きなのだ。とは言っても、還暦やら古希やら、果ては80歳傘寿まで、野球なら祝を受けてもいいと、ドーム以前の後楽園球場で、文壇の人達が集まって、勿論本人も出場して野球をやったという経歴の持ち主だから、満更きらいという訳ではないのかもしれない。
 生き残っているのは、次男の兄と私のふたりになった。その代わり、それぞれの子ども、孫、ひ孫と世代交代をして、人数はふえた。少子高齢化の時代だから、結構な話である。今年も又6月12日に集まることになっている。
山内 静夫
(鎌倉文学館館長)

鎌倉ケーブルテレビ広報誌
「チャンネルガイド」
平成17年6月号掲載
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