私見 食について

 外食、ということばは、そんなに古いことばではない、ような気がする。外食産業となると、まさしく新造語である。私たちの子供の頃は、外で食事をするということは、贅沢なこと、お祝いごとという響きがあったように思う。勿論今だってそういう場合がない訳じゃない。
 「どうだい?久しぶりに皆でxx家の天ぷらでも食べに行くか」
などと家長が言い出したりすると、家族一同大騒ぎになるが、反対に
 「ねえお母さん、何かあったの? お父さんボーナス出たの?」
と詮索されたりする。
 こういうケースと、外食というのは明らかに違う。外で食事をするという意味では外食に違いないが、現代言われている外食ということばには、簡単、安い、台所を汚さないで済むというような食生活の合理化、機能化が優先している。従って主婦が、今日は悪いけど外食にしといて、という表現になる。さて今夜はうなぎにするか、ステーキにするかなどと、心を弾ませるということには多分ならない。
 勿論、これには社会全体が変ってきているという問題がある。所謂核家族化だ。以前は、平均的に一家というのは、両親に子供が二人か三人、それに両親何れかの親、つまりおじいちゃんかおばあちゃん、といった家族構成が極く普通の家族だった。一家で食事に出かけるとなると容易ではない。それが近頃は、嫁や息子が結婚でもすればすぐにマンション住い、大学へ入ったりすれば、通学できない距離でもないのに一人前にひとりでアパート住い、祖父母も場合によってはケアマンション入りと、核分裂をおこす。残された御主人夫婦は、肩の荷が降りたとホッと一息、も束の間、歳と共に孤独感に襲われる、こうして四分裂した夫々は外食のお世話になる、という筋書。他人事ではない。
 老夫婦に猫一匹。贅沢を言う訳ではないが、二人分のおかずと言っても、つい多めになって二日も三日も同じおかずを食べる羽目になる。ついつい週に一回位は外食のお世話になる。電車に二十分も乗れば、抜群の天ぷら屋さんがあるのだが、そこへ行くなら東京に住んでいる娘夫婦が来た時にしようと親心が出て、つい手近かで間に合わせてしまう。食事というのは、何と言っても人数が多いほうが愉しい。以前会社勤めの頃、四、五人の仲間と昼食をとりに外出する。何を食べようか、これが仲々決まらない、人それぞれに、今日はこれを食べたいというものがあるだろうが、我を張るようで何となく言い出せないものだ。そういう時、あるひとりが必ず言うジョークがある。
 「今日のこの昼めしは、一生に一度しかないんだぞ。だからな、後悔しないようにナ」
 ジョークを超えて、哲学である。人はみな、人生に悔いを残すまじ、と一瞬一瞬を必死で生きているのだから・・・。
山内 静夫
(鎌倉文学館館長)

鎌倉ケーブルテレビ広報誌
「チャンネルガイド」
平成17年5月号掲載
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