通う

2004年07月01日  社会人になって五十六年、さき頃通勤生活から卒業した。通う、ということで言えば、小学校、中学、大学と通学したことも加えると、七十年だ。少し長めだとは思うが、別に珍しくもないこと、その歳月の中で通うことに費やした時間を足し算してみると、相当な時間になるように思う。通うという言葉は、一定の場所に毎日(休日は別にして)通い続けることで、行くという言葉とは、意味がかなり違う。

 小学校の時は、子供の足でも十二、三分の徒歩通学だった。昭和の六、七年頃だったから、鎌倉の町中も畑が多くあったし、生垣や四つ目垣の家が続く細い路地は緑が色濃かった。たったひとつ、子供心に恐かったのは、その頃”ヘルメットのこじき”と言っていた物乞いに出っくわすことだった。行者のような白い布を巻きつけたようないでたちで、ヘルメット帽を目深(まぶか)にかぶり、髭だらけの顔半分しか見えてないのが何とも不気味で、ある時など夢中で知らない家の玄関へ飛び込んでしまって、通り過ぎるまでかくれていたことを、今でも鮮明に覚えている。
 中学から大学は電車通学だ。既に日支事変は始まっていたが、それでも間違いなく青春であった。眼が眩(くら)む程、美しいと思った女学生と同じ電車に乗りたくて仕方なかった。話しかけるなど出来るような時代ではなかった。満員電車の人の肩越しに、電車の揺れでチラッと横顔が見えたりすると、胸が高鳴った。
 戦争が激しくなって、勤労動員やら軍隊などで一年近く中断し、戦後再び大学生活に戻った。世の中の空気は、一変していた。プラットホームで女学生と話をしていても人目を憚(はばか)ることもなかった。もっとも大学の生活は、授業の関係で時間がまちまちで、毎日決まった時間の電車に乗ることも少なくなったが・・・。
 社会人になって、勤め先は大船だった。電車に乗っている時間は六分だが、通勤という意識に変わりはなかった。然し、映画製作という仕事は、実に勤務内容が不規則で、半分自由業みたいな感じもあった。それだけ仕事が面白くて、定時に退社することなど少なかった。仲間と呑む機会がふえた。夕方から東京へ出かけて、終電で帰ってくるようなこともザラだった。家庭生活のリズムは、仕事と遊びのリズムに乱されていった。映画の仕事はそういうもの、と自分勝手な理屈をつけていた。
 年を経て、一定のリズムで通勤するデスクの仕事に就くようになった。商い、とは飽きないこと、という言葉が成程と肯けて、通いつづけるということが大切なのだと思った。子供の頃は言わずもがな、いいおとなになっても、ズル休みをしたことのない人はいないと思う。あれは、自分がいつの間にかそういうリズムに縛られていることへのレジスタンスなのだろう。そうして息抜きをして、また通い馴れた道を黙々と仕事の場へわが身を運んでいく、人生とはそんなものであろう。

 この所、週に一日か二日、鎌倉文学館へ出かけている。家から歩けば二十分ちょっと。年齢(とし)と共に遅くなった歩みだが、出来るだけ小路を選んで歩くことにしている。
 こういうのは、通う、と言うには程遠いな、そんなことを呟きながら歩く−−。

山内 静夫
(鎌倉文学館館長)

鎌倉ケーブルテレビ広報誌
「チャンネルガイド」
平成16年7月号掲載
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