去年今年

2004年01月01日  2003年という年は、私にとって特別の年であった。わが師小津安二郎監督の生誕100年没後40年という大きな節目の年であったからである。この意義ある年のために、松竹は前年から周到な準備を進め、2002年の12月12日(この日は小津監督の誕生日であり又命日でもある)に、その記念事業のすべてをマスコミを通じて発表し、2003年を迎えたのである。
 2月のベルリン映画祭に於ける全作品上映を皮切り、4月の香港、10月のニューヨークと、世界の著名な映画祭で3回も全作品上映が行われたというのは、恐らく前例のない画期的なことではないだろうか。小津映画に対する評価が、監督の没後に徐々に高まりをみせ、小津映画のもつ独自の作品スタイルと深い人生観照を平易な語り口で淡々と語る所謂「小津調」の映画に対する関心が、世界中に広がりを見せたことは、まさに驚異であった。
 10年前の没後30年の年も、いろいろなイベントが行われたが、その頃から全国の小津監督のゆかりの地、例えば小津監督の生れた江東区深川、小学、中学時代を送った伊勢松坂、代用教員をしていた飯高町、脚本執筆のために1年の半分近く過した茅ヶ崎や蓼科高原、そして晩年の10年間を母とふたりで暮した鎌倉などから、小津映画にもっと光を当てようという熱心な人々の輪が広がると共に連繋を結び、全国小津安二郎ネットワーク会議なるものが生れたことも特筆に価する。そしてビジネスとは言え、それらすべてをコントロールし、この2003年の1年間、小津ブームをまき起した松竹の担当セクションの努力にも又拍手をおくりたい。
 小津監督とは、6本の作品のスタッフとして、そして又日常生活の中でも最も監督の近くにいた私は、この1年間出来る限りこれらの催しに加わった。私にとってそれは、小津先生が生きていて、仕事を与えられているのと同じ気持だった。ニューヨーク映画祭のオープンに立ち会えたのも、10数回に及ぶ座談会、講座等に参加させて頂いたのも、すべて小津組の仕事、と心の中では思ってきた。50年前のこととはいえ、私自身の中に残っている小津先生についての思い出や制作中の話題などが、何とも記憶に少なく貧困であるかを、身をもって知った。確かに、小津作品が作られていた時期や、その現場を知っている人は少なくなった。身の程も弁(わきま)えず、と冷や汗がでるが、分(ぶん)はつくしたと思っている。
 2003年を忘れることはないであろう。2004年になって、余韻は残るかも知れないが、次に又110年とか150年とかの第1歩が始まると考えるべきであろう。
 ますます記憶力は衰退するであろうが、心の中の小津先生の姿は、生涯変わることはない。いつものように新年を迎えるだけである。

(S・Y)

鎌倉ケーブルテレビ広報誌
「チャンネルガイド」
平成16年1月号掲載
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