相撲今昔

2003年8月8日  子供の頃から、ずっと好きだったが、今でも場所が始まると、テレビをつけずにいられない相撲好きである。前にも一度この欄で若貴人気のことを書いたので、調べてみたら平成五年だった。若貴時代からもう十年たったとは、一寸驚く。
 相撲についての古い思い出が二つある。紙相撲というのをご存知だろうか。玩具として売っているものもあったようだが、わが家ではすべて手製だった。まだ小学校へあがる前のことだから、自分で作れる筈はない。兄かその頃家にいた書生さんが作ってくれたのであろう。二十センチ角ぐらいの固いボール紙の箱を 裏返してそこに円を画き、土俵にする。厚めの画用紙を二つ折りにして、力士の形を切り、足のひらの部分を大きく残して、左右に開き立つようにする。実際のお相撲さんをイメージして、肥満型やソップ型(痩せて背の高い力士をこう呼ぶ)の紙人形を作り、土俵に東西から上げ、箱の隅を双方からトントントントン叩くのである。バランスが悪いとすぐ倒れるし、押されて土俵の外へ出されたりする。紙力士の作り方で、結構個性が出て面白い。夢中でトントンやってたことをよく覚えている。
 もうひとつは、テレビもない時代にどうしてと、不思議でならないが、子供心に、天龍という力士が好きだったことである。五つ六つの頃、両親に連れていって貰い、初めて両国国技館でナマの相撲を見たこと、当時関脇ぐらいだった天龍を一生けんめい声援した記憶がある。これ以来天龍贔屓になったのか、天龍を見たいと親にせがんで行ったのか、そこはよくわからない。
 余談になるが、各界通なら知っているに違いない、昭和七年(一九三二年)、天龍、大ノ里ら三二人の力士が相撲協会から脱退する事件が起った。各界改革を訴え、確か大阪へ行って別個の場所を開いたが成功せず、大半の力士は後に復帰したのではなかったかと思う。世に謂う、春秋園事件である。つまり、私が見た天龍は当然脱退以前だと思うので、そうだとすれば間違いなく七十年を超す古い相撲ファンだと申し上げたいだけのことである。

 こんなことを書く気になったのも、最近の相撲が余りにも情けなく、嘆かわしいからである。七月の名古屋場所、名前は伏せるが、十勝と好成績ながらそのうち八番は引き技による勝星だそうである。もう一人、幕内と十両を何回も行ったり来たりしている力士で、引いて勝つことだけを考えてるとしか思えない力士もある。引き落としも叩き込みも、四十八手にある技には違いないが、これは相撲の本道ではあるまい。その他にも、立ち合い変化して、相手のつっこみをかわす、一秒にも足らぬ相撲も多い。闘う以前に、勝つという目標だけを考えるのは、相撲道ではない。
 引き合いに出すのも勿体ないが、あの不正出の大相撲双葉山の四年間にわたる六十九連勝の相撲内容を、いまの全力士に教えてやったらどうだろう。投げ技で三三番、寄り、押しで三六番、引き技など一番もない。しかも、一回目の仕切りからでも必ず受けて立つ。これでこそ、国技と称ばれるに相応しい正々堂々のスポーツではないか。双葉山という力士は、独特の二枚腰と言われて、土俵際の「打っ棄り(うっちゃり)」が得意技であったが、これさえも大関昇進以来一番もない。責任感と自覚に他ならない。今場所問題になった横綱の反則負けも、所詮は、引く、という動きがなければ起る筈はないのである。

  押さば押せ 引かば押せ
      押して勝つのが 相撲の極意

 昔のラジオの相撲中継のアナウンサーは、よくこんなことを言っていたが、最近はトンと聞かぬ。
 世の中どう変わっても、変わって欲しくないものもあるのだ。

(S・Y)

鎌倉ケーブルテレビ広報誌
「チャンネルガイド」
平成15年9月号掲載
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