戦中派

2003年3月1日  旧制の中学から大学の予科へ進学する制度だった頃、しかも予科在学中に終戦(一九四五年)を迎えるという、学生々活を謳歌するには程遠い時代が、私たちの学生時代であった。私たち、と書いたのは、その頃の友人グループのその後の人生のことを、書きとめておこうと思ったからだ。私を含めて六人、六游会と名付けていた。游は遊ぶではなく、学ぶ(游学という言葉がある)の意味である、と屁理屈をつけての命名だが、実態は殆ど「遊ぶ」ばかりだった。一人を除いて、五人は軍隊に刈り出された。戻ってくる時期がまちまちだったから、卒業に半年か一年の差が出来た。何れにしても、昭和二十二、三年のことで、この日本でどう生きればいいのか、誰にも仲々答えが見つからない、そんな時代だった。一番若いA(私を除く五人を、仮にAからEとしよう)は、一部上場の会社に就職したのに、金銭上の失敗でクビになり、その上人妻との不倫から又しても金のトラブルを起し、水商売に入った。よく働く妻を得て、共稼ぎでようやく人生を取り戻しつつあったのに、商売柄と元々好きなアルコールに再び溺れ、妻の眼を逃れての盗み酒を重ねて、ひとり自宅のベッドの上で人生を終えた。
 Bは、一番年長で、予科で一年留年して同じクラスになった。グループの親分格だった。実家は東海地方の大きな材木問屋の長男だが、父親は彼の弟に商売を継がせた。家を出て、競輪の開催地を追って歩くような生活に入った。仲間のCが探し出し、連れ戻したが、間もなく癌がBの命を奪った。Cも地方の素封家(そほうか)の息子だが、特攻隊からの復員で、酒も呑まない真面目人間だったのに、突如芸者遊びに夢中になったりした。中年になってから若い妻を貰い、コーヒー店を地道に経営していたが、二年程前やはり癌で亡くなった。一番秀才だったDは、その語学力と商才で、早くから個人輸入の会社を経営、成功者に見えたが、詐欺事件に連座、それ以後光を失って、家庭も崩壊、下町の小さなマンションの一室で五年前いのちを終えた。Eは、新聞社を定年まできちんと勤めあげ、今は蔵王温泉の近くに引込んで、難聴に悩んでいるという近況をもらったが、健在だ。
 六游会も、Eと私の二人になった。年齢を考えれば別に不思議ではないが、亡くなった四人の学生時代の明るい姿を思い浮かべると、どこかで人生の歯車が狂ったのだろうか。それをしも、戦争のおとした翳(かげ)、というのは、身贔屓(みびいき)すぎるかも知れないが・・・。

(S・Y)

鎌倉ケーブルテレビ広報誌
「チャンネルガイド」
平成15年3月号掲載
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