忘れないあの日々

2002年11月2日  1年前−−−
 2001年11月8日の朝7時少し前、電話が鳴った。友人のU君からで、「だめだったって・・・、先生亡くなった、午前1時・・・」そう、と答えて、電話を切った。ぽっかり穴が空いたような、言いようのない気持ちだった。
 横山隆一先生が前日自宅の、一番お好きだった居酒屋と称する食堂で、テレビの前のソファで眠っているような姿で、意識が無くなっているのを、家族の人が見つけ、病院へ運ばれたことは聞いていた。94歳というご高齢では、諦める外ないと思いながら、寂しくてならなかった。
 駆け出しの若僧の頃から、小津先生や新聞社の連中と一緒に、よく先生の処へ押しかけては呑ませてもらった。1955年頃、先生がおとぎプロのスタジオを建てて、アニメ映画の製作に熱中しておられた頃、よく「おとぎプロで映画撮るときには、キミを主役に使うよ」
 よく冗談を言われる時に見せるテレ笑いのような笑顔で言われたことばが、50年たっても、私の心に残ったままだ。まさか、そんなことを信じた訳ではない。先生のやさしい心が、私の心にしみ通って残った。
 横山邸のお花見パーティーには、毎年のように伺った。酔っぱらいは嫌い、でも酒呑みは好きだった。大勢のお客に囲まれて、コップ酒と程よい会話が、八重桜の満開の花の下でとび交う、それが何よりお好きのようだった。
 5、6年前頃から、東京は勿論、鎌倉のまちの飲み屋にも行かれなかった。自宅の居酒屋風食堂で、2、3人の若い呑み仲間と呑むのが、何よりの楽しみのようであった。幸せにも、その中のひとりに加わっていた。全く乱れない、見事な酒豪の先生も、この数年はコップ酒2杯と決められていた。奥さんの澄さんが、さりげなく先生の体を気づかっておられた。去年5月、その澄夫人が突然先立たれた。先生の涙を初めて見た。それ以後、横山先生の小さなお体のまわりを、寂しさが包んでいるように見えてならなかった。百までは生きる、とよく仰有っていたのに、そのことばも聞かれなくなった。
 8時半を、客はタイムリミットにして席を立つことにしていた。「どうも有難う、又来てヨ、毎日でもいいから」
 そう言われると、先生は居酒屋から奥の寝室に入って行かれた。1年が経とうとしている。悲しみは去ったが、寂しさは仲々去らない。先生と向かい合ってコップ酒を呑んだ、あのやさしく、こころの豊かな時の流れを、いまだに忘れかねている。

(S・Y)

鎌倉ケーブルテレビ広報誌
「チャンネルガイド」
平成14年11月号掲載
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