いわゆる、ひとつのケーブルテレビの観方(見方?)

2002年7月27日  余りにも商売に直結するので、こういうことをこの欄で書くのは気がひけるから、書かなかったが、ちょっと書いてみたい気分になったので書いてみる。
 ケーブルテレビが「再送信」つまり映像を綺麗にみせることを主眼として発足したのは間違いない。今もそれはテーマである。そして多チャンネル時代を迎え、多くの専門性の高いチャンネルを提供していった。
 いくら多チャンネルが存在しても、瞬間、瞬間で個人が観られるチャンネルは一つに限られていて、残りのチャンネルは無駄に終わっている。−−−−実はここのところが大切である。
 日本の、地上波(NHK総合、TBS、NTV、フジTV・・・等)放送がすべて総合編成のテレビ局で始まったところに日本のテレビ視聴者の習慣性が受動的なものになっていった。バスの運行表と同じで、その時刻まで待って観る。総合編成だから、ニュースも、スポーツも音楽も、学習ものも、バラエティも一日のスケジュールの中で勝手に変化に富んで先方から送ってくれるから都合良く観られる。でも本当に同じ性格のテレビ局が五つも、六つも必要であったろうか、さらに、テレビの観方ももっと視聴者の方で能動的に観ることができるべきであったのではなかろうか。
 多チャンネルは文化である。自分の嗜好に合わせて、多彩な選択が出来、それぞれに他局との差別化が生れていて、一見、無駄に見えるが、言葉をかえせば"豊かさ"である。「人は合理的に生きるのみにあらず」大いなる無駄の中の文化に価値があると考えている。
 ただ、ケーブルテレビ局も本当にお客様のニーズにあった「コンビニエンスなサービス」を提供しなければならない。統計によれば顧客は「利便性」を求める志向が強くなっているとも言われている。ケーブルテレビ事業者として文化と利便性(文明)の部分を適正に配していく必要性もまた生まれてきている。「忙しいからテレビを観る時間がない」ではなくて、そこにボタンを押せば文化の蓄積があり、好きな番組があることの意味は大きい。もちろん、観てトクする利便性も当然あっての話である。時代はデジタル化を迎えて、より「観るテレビ」から「使うテレビ」に変わっていく。悪文不悪。

(A・M)

鎌倉ケーブルテレビ広報誌
「チャンネルガイド」
平成14年8月号掲載
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