ポンクラブ

03月の絵  パチンコというゲームは、一向に衰えをみせず、よくは知らないが、益々投機的というか高額な金が動くらしく、パチンコにまつわる人生ドラマは後を絶たぬようだ。それに引き換え、麻雀屋は巷から姿を消しつつある。麻雀という遊びは、パチンコに較べればはるかに知的で面白いと思うが、四人揃わないと出来ないこと、一回のゲームに時間がかかることなど、現代社会のスピードにそぐわないのだろう。
 私の麻雀歴は大学の頃からだが、友達の下宿に集まったりで麻雀屋では余りやらなかった。社会人になり、家を持ってからは、土曜の夜など毎週のようにやった。私の父も麻雀好きだった。昭和の初め頃、文士仲間と鎌倉の某麻雀倶楽部で麻雀をやっていて警察に踏みこまれ検挙されたことがあり、麻雀は前科一犯の腕前だと冗談を言っていた。ずっと晩年は専ら家庭麻雀で、頭の中から仕事の構想などを一時からっぽにする、今風に言えばリラックスの効用もあったのだろう。大体常連というか、四、五人のメンバーが決まっていて(私もその中の一人だが)、結構深夜まで楽しんでいた。そのうち段々メンバーも多くなり、大会をやるようになった。名付けて「鎌倉ポンクラブ」、場所は扇ヶ谷の奥の古い料理旅館の香風園だった。大体四卓か五卓位で、半チャン毎に組合せを変えて夕方まで戦い、後は会食して、表彰式をやる。作家の人たちには麻雀好きが多く、ペンクラブならぬポンクラブには、永井龍男、林房雄、久生十蘭という方々もよく顔を見せた。五十年代の前半頃が一番盛んで、十数回続いた。結婚前の佐田啓二も暇があると加った。この会を知った小津安二郎が、優勝トロフィーを寄贈すると言うので、取りに伺ったら、これば何と小津監督の「東京物語」が受賞したイギリスの映画賞で、サザーランド賞という権威ある賞のトロフィーで、オレはこんなもの家に飾って置く趣味はない、と言われ有難く頂戴した。こんな話、もう五十年も昔のことで、バラしても叱られもしまいが、何ともゆったりとしたユーモラスな話だ。もはや、メンバーの殆どは亡くなったし、日曜の午後、麻雀大会をやって遊ぶような気風も余猶も鎌倉からはなくなった。
 この二、三年、ご近所のMさんの家で、年に一、二回、麻雀をやる。半チャンで二時間以上かかるような年寄り麻雀だが、これも半分は呑み食いの愉しみが目的である。翌日は腰の痛みで、マッサージをとる羽目になるのもご愛嬌と申そうか。

(S.Y)

鎌倉ケーブルテレビ広報誌
「チャンネルガイド」
平成14年3月号掲載
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