玉縄城址(一)
(たまなわじょう・あと(一))

 

大正十五年(1926)一月 鎌倉同人会建之

 

碑文

城は永正九年(1512)北條早雲の築く所に係り其の同族之に居す 天文中(1532‐1555)綱成代り入る 綱成実は駿州(すんしゅう:静岡)今川氏の宗徒福島氏の孤子たり 早雲の長子氏綱に養はれて其の氏北條を冒(おか:名乗)し 又其女(むすめ)を得て之を妻とし  且此城を興へられ 爾来(以後) 子孫 氏繁 氏勝 之を相継く 小田原北條氏滅亡の後 漸く(ようやく)廃城となる 此の地鎌倉 藤沢の際に在って高丘居り 駅路に当り 四方通塞の要地たり 而(しこう)して勇武絶倫(抜群)の将之に拠る 其の当年  四隣を風靡(ふうび)せし彼の黄八幡の旗風も偲(しの)ばるるにあらずや

説明

玉縄城は1512年に北條早雲(そううん)が築き、その後その子孫がこの城に住みました。  1542年頃綱成(つなしげ)が城主になりました。 綱成(つなしげ)は駿州(すんしゅう:静岡県)の今川氏の宗門の信者である福島氏の子であったが、早雲の長男である氏綱(うじつな)の養子になりました。  そして北條と名乗り、またその娘を妻とし、さらにこの城を与えられました。 その後子孫の氏繁(うじしげ)、氏勝(うじかつ)らが継ぎ、小田原の北条氏が亡ぶに至って、城も無くなりました。  ここの地形は鎌倉と藤沢の境界の高台にあり、四方の路が交差する交通の要所になっています。 この好立地に武力の優れた武将が城を構えたのです。 ここに立てば、 当時四方をなびかせ従わせた有名な黄色の八幡の旗音が聞こえてくるようではありませんか。
位置
城廻200付近で,清泉女学院(中・高校)の正門前左手の玉縄城跡への階段手前


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