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本 尊 : 釈迦牟尼佛 脇佛:文殊菩薩・普賢菩薩 開 山 : 泰絮宗榮大和尚 開 基 : 玉縄城主初代 北條綱成 北條綱成が、文亀3年(1503年)玉縄城の東北、山居(現在の玉縄4・5丁目と栄光学園の地)に創建し、寺地を寄付し 香花院(瑞光院)としました。 天正3年(1575年)玉縄城主3代目北條氏勝が現在地に移し、玉縄城主2代目北條氏繁を祀り、 龍宝寺と改名しました。 氏勝は玉縄城開城後、千葉県岩富城主となりました。慶長16年(1611年)謀反の疑いをかけられ、自殺しています。 龍宝寺にはその位牌があります。 また、源実朝の位牌があって、実朝を大檀那と号しています。 玉縄城は、元和5年(1619年)には松平正綱が城主で「正信」・「正久」と嗣ぎ、元禄11年(1698年)三河吉良に移封、 玉縄城は廃城となり、天領となって、伊豆韮山代官の支配下となる。 植木相模陣に陣屋が設けられたのは 松平氏が城主となった時代で、寺にはその時の家臣の墓石が残っている。 元禄年間(1688〜1708年) 新井白石が、朝鮮より幕府の慶賀に来日した朝鮮使節を迎えるために、藤沢宿に来た際、龍宝寺に泊まり、藤沢より正式の 行列を整えて、江戸に赴くようにしたと言われている。 また、植木村より白石の知行の中の二百石が収められている。その 因縁によって享保10年(1725年)室鳩巣撰文の「朝散大夫新井源公碑銘」を刻んだ石碑があるが、刻文は消えて読めない。 龍宝寺の全景を絵図に描いた「相中留恩記略」〔天保7年(1839)〜安政3年(1856)〕によると、本堂・庫裡・坐禅堂・ 山門・大庫裡・鐘楼等の大伽藍が立ち並び、両側に溝のある植木部落の道路より、石橋を渡り、両側に老松を植えた 約500mの参道を経て、山門に至り山門の両側には松を植樹した5〜60mの土手があり、約200m位歩いて 本堂に至る、一谷戸の全景が描かれ、更に東側の山に稲荷堂、西側の山に金比羅宮が祀られています。 この状態が幕末、明治と 続いて来たものと思われます。 明治15年(1880年)玉縄小学校が、村の行政区域の改編で玉縄村の渡内が村岡村に編入されたので、玉縄村の 中心である龍宝寺山門内に移ってきました。 寺の坐禅堂を改造し、岡本より廃寺となった小林寺の木材で増築、 教室2室を新築したものと思われます。 運動場は山門と中雀門の西側で、生徒数の増加に応じ東側を使用、明治の 終わりには2教室を山門の土手の傍に移し、新教室4室を増築した。 昭和26年(1951年)4月26日山門をのぞくすべてが漏電?による火災で焼失した。昭和34年(1959年)再建し 10月25日落慶法要を行った。 |
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