![]() 当山は高祖日蓮上人が建長六年(1254)御年三十三歳から数年にわたって、 折伏逆化の辻説法を遊ばされた旧跡であります。 聖人は建長五年(1253)四月二十八日、房州清澄山頂旭の森で立教開宗せられ、 同五月鎌倉に入り、名越に御庵室を結ばれて、鎌倉の辻にて正法宣布の法戦を布き、 為に杖木瓦石の難に御会いなされたのも、実に此地なのであります。 高祖滅後御弟子九老僧天目上人(伊豆の美濃阿闇梨と号す。 延元二年(1337)四月二十六日遷化世寿八十一歳) 御師日蓮聖人の先蹤(せんしょう)を踏んで大いに此地に説法の法莚を盛んにしました。 そして遂に一宇を建立し法華山本興寺と号し実に当山の開山であります。 時に延元元年(1336)でありました。 やがて興国六年(1345)、日什上人(顕本法華宗開祖公武諫奏前後六回二位に叙され僧都を賜ふ) 高祖の壱百遠忌を期して公武諫奏を行わんと決意せらるるや、先ず鎌倉に入り、 此地に留錫せられ、本門之戒壇建立に擬せんとせられし為、堂宇伽藍整備し、寺運全く興隆しました。 後日、日什上人は京都へ妙満寺をも創建せられ、その寺の開山になり、また、 当寺の第二祖中興となっております。 ところが慶長十三年(1608)当山二十七代常楽院日徑上人が不受不施法門主張の為め、 徳川家康の忌避に触れ、京都六条河原に於いて耳鼻殺ぎの極刑に処せられ、 その一門は悉く迫害せられました時、当山もまた、寺取涅し(とりつぶし)の命を承けて 寺運全く衰頽しました。 (現在横浜市上飯田にある本興寺はその際当山を移したものである) 後年、比企谷歴代照幡院日逞上人が(身延日遠上人高弟京都本満寺 二十四世大野山歴世飯高能代)説法旧地の衰頽を嘆き身命を抛って寺門の丹精を計り、 徳川家より寺領寄付もあり、中興の業、遂に完成しました。 時に寛文十庚戌年(1670)でした。 爾来、星霜を経て今日に及んでおります。 法華山五十六世日亮記す
(「本興寺縁起」より転載)
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