丸山定夫の碑文

丸山定夫は、明治34年5月31日、愛媛県松山市北徒歩町に、海南新聞社編集長、丸山常次の四男としてうまれた。
そして早くから演劇の魅力に憑かれ、大正13年6月3日、築地小劇場が東京築地に開設されるや、その開幕のドラを叩いた。
つづいて昭和三年まで同劇場に働き、昭和4年新築地劇団の創立に加わって、15年まで舞台に立ち、独異の性格俳優として「新劇の団十郎」とまで言われ、新劇史不朽の名をとどめた。

人間としても、よく読み、よく歌い、よく飲み、よく恋し、友を愛し、人の世話を見、純情で敏感で柔軟な心情を以って知る人すべてから愛された。
が、昭和20年8月6日、広島市堀川町99番地、移動演劇桜隊の宿舎でアメリカ軍投下の原爆に遭い、十日間の苦悶の末、十六日、厳島存光寺の庫裏で誰にも看取られずに43年のいのちを閉じた。
その後、埋められた場所さへ知られずにいたのを、最近この地に朽ちかけた墓標が発見され、友人知人たちの強力で新しく記念碑が建てられた。

知友代表として、その由来を記す。
1966年10月
藤森成吉