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鎌倉の散歩道(44)
鎌倉文学散歩  (14)

− 円覚寺界隈 −

 11月の初旬、円覚寺を訪れました。 平日の10時過ぎとあって観光客もまばらです。
円覚寺入口 円覚寺三門
▲ 円覚寺入口 ▲ 円覚寺三門

大きな「円覚興聖禅寺」の扁額が掲げられている三門を通って先ずは漱石が参籠したという帰源院に上りました。
  
帰源院 石蕗の花
▲ 帰源院 ▲ 石蕗の花

 入口は閉ざされています。 「鎌倉漱石の会」の札が掛かっていました。 以前、「京都漱石の会」の代表の方から会報を預かり鎌倉文学館に届けたことがありました。 真船豊も'45年から14年間、ここの離れに居住したと門前の「文学案内」に書いてありました。

 門の脇の車道を上がって行ったら建物に近づけましたが黒服の男がこちらを胡散臭そうに見ています。 そばに石蕗の花が早、咲いていました。

 北鎌倉の「匠の市」があった日、東慶寺の参道脇に「漱石参禅百年記念碑」が建っているのを見つけました。 説明文には、「帰源院には当時、帝大の哲学生鈴木貞太郎(後の大拙)も参禅中であった」とありました。

 先ほど「漱石の会」の文字を見て『草枕』の冒頭に出てくる「…情に掉させば流される。…」を思い出し、漱石の名は「石に漱(くちすす)ぎ、流れに枕す」から採ったのではないかと考えつきました。

  今、検索したらどうやらそのようでした。 「北鎌倉情報局」というサイトに「漱石の名の由来は「漱石枕流」という四字熟語から来ていることが分かったのだ。 「漱石枕流」とは屁理屈を言って言い逃れをすること負け惜しみが強いことのたとえ」と。

  さらに「手水舎(ちょうずや、神社で参拝者が手を洗い、口をすすぐための水盤を置く建物)の別称が漱石だ」といい、「『石漱』」と書かれた手水がこの寺仏殿の手前右手にある。 この手水の裏側に天保6年の銘があるので、夏目漱石とは関係ない」とも書いてありました。

 今度、行ったら見てみましょう。
  
石段 弁天堂茶屋
▲ 石段 ▲ 弁天堂茶屋
 「洪鐘」を見に石段を上りましたが「オオガネ」とルビがふってありました。  洪水からこう読めるのは分かりますが『大辞泉』の「洪」を見ると(音)コウとだけで(訓)は書いてありません。 意味は(1)おおみず「洪水、洪積層」(2)広く大きい「洪大、洪業ほか」(3)ハンガリー(洪牙利)でした。

 石段手前に鳥居が立ってます。 神仏混交の名残です。 そして石段の両側に磨耗して部分的にコケ蒸した古い石段が見えます。 鳥居の近くに、昭和31年に東京弁天講中が修理したと書いてありましたが修理前の石段でした。 石段を上りきると正面に弁天茶屋。左手に洪鐘が吊るされてありました。鐘を支える梁が太いです。

  
洪鐘 北鎌倉女学院
▲ 洪鐘 ▲ 北鎌倉女学院
  しかし、鐘撞堂が2つに仕切られ奥の半分に鐘が位置しています。 鐘を突く僧侶が雨に濡れないようにという感じで鐘があるのです。 中央に吊るさない意味が分かりません。 鐘撞堂を設計した人はバランスをとるために苦労したことでしょう。

  この鐘は1301年、執権北条貞時が国家安泰を祈って鋳造したとあります。 以前、この鐘をデパートかどこかへ出展したことがあったそうでそのとき、この鐘を外してその荷重がなくなると堂がゆがむかどうかして鐘を元に戻せなくなるので同じくらいの荷重を何かで架けたという説明がありました。
   
  展望台から北鎌倉女学院や東慶寺などが見下ろせました。黄葉は未だのようです。


  
方丈 佛日庵
▲ 方丈 ▲ 佛日庵
  仏殿の左に「選仏場」。坐禅堂です。『大辞泉』によると、「坐」は常用漢字表にないですが、「何もせずに」と言う意味から「坐視」、「関わり合いになる」から「連坐」と使われると例示されていました。

  仏殿裏には、ねぎぼうずを小さくしたような赤い花?が群生し、色濃く見えました(後日、ヒメツルソバと判明)。サザンカの花も。その先に妙香池。門前にある白鷺池と並んで、創建当初よりある放生池と。何を放したのでしょうか。ムラサキシキブが池畔に一株、青紫の実をつけてます。
国宝舎利殿。時宗公の御廟所です。境内から読経する声が聞こえてきました。

 佛日庵へ入るには100円が要りました。しおりと火がついたやや太い線香を渡されました。これは初めてのことでしたが、良いことだと思いました。そこに、「多羅葉(たらよう)」があり、ハガキ由来の木、鉄筆で写経したとありました。葉の裏に文字が書けるので、経文を書くヤシ科の多羅樹にたとえて名づけられた、そうです。

  
紅梅院 時鳥草
▲ 紅梅院 ▲ 時鳥草

 突き当たりは紅梅院。 紫式部、甘茶の実、お茶、赤い秋明菊、時鳥草が咲いていました。
引き返して「山野草の花の寺」の松嶺院に入りました。 ここも有料です。 有島武郎はここで代表作の『或る女』を書いていて明治末には葛西善蔵も寄寓したとか。 花に名札がつけられているのが嬉しいです。リンドウ、山ぼうし、しなの柿、千成柿…。墓所に入る坂の脇にボタンが多数、植わってます。 墓地には著名人の墓が数体あります。十月桜が咲いてます。 源平小菊も。 白雲庵の方へ行きました。 カラス瓜の艶やかな実がぶら下がってます。 道端の小さな石仏にそれが供えられていました。 雲頂庵も門を閉ざしています。たしか、雲頂庵は、ボタンの時期、入れたと思いました。

 なお、大正15年8月に第一書房が発行した『小泉八雲全集』第3巻(厚さが5cmもある大部な本でした)第4章は「江ノ島巡礼」でした。 そこには円覚寺、建長寺、円応寺?(閻魔堂)、大仏、長谷観音、江の島を訪れたことがP50に渡って記されていました。 この情報を提供してくれた編集員の「りんでん」さんのご主人は市井の小泉八雲研究家だそうです。 付してお礼を申し上げます。

 この先に墓地があり、円覚寺の寺領はここまで及んでいるかと思いました。

  
八雲神社 晴明の石
▲ 八雲神社 ▲ 清明の石
 その少し先に、八雲神社があります。鎌倉市内には、八雲神社が6つまであるのを確かめています。古い名が消えている神社も含めて。8つないかと期待しているのですが…。
ここには、陰陽師・安倍晴明の「晴明の石」があるというので寄ったのです。長径が1mぐらいの石でした。 「かまくら子ども風土記」には「晴明の井戸」も十王堂橋近くの民家に残っている、とありました。 他にも、晴明が住んだといわれているところが、鎌倉へ行く道筋にあります。
 境内から北鎌倉駅のホームが見下ろせました。


 鎌倉市内の文人を訪ねる「散歩」も終わりを迎えました。 
 長らくのご愛読ありがとうございました。

 なお、このテーマに興味をお持ちの方には、筆者がお世話になった『文学都市かまくら100人』(文学館にて頒布)と共に『かまくら子ども風土記』を改めて紹介いたします。 後者は最近、A4、1冊にまとめられて市役所ほか一部の書店でもお求めいただけます。




制作:亜郁/太郎

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