鎌倉の散歩道 ・・・・・・ 38
鎌倉文学散歩 (9)
− 大町、材木座にゆかりのある文人の痕跡を訪ねて −
今日は大町、材木座にゆかりのある文人の痕跡をたどります。 先ずは元八幡(由比若宮)を目指します。若宮大路を少し行って、横須賀線に沿うように曲がり、踏切を右に見て左折し、2つ目の四つ角を右折します。踏切手前の左に本興寺、右に辻薬師堂があるのが目印となります。 |
▲ 鎌倉駅 | ▲ 水仙 |
踏切を渡って少し行ったら、足元に「元鶴岡八幡」の石標があり、細い道を入った突き当たりに元八幡がありました。 芥川龍之介は、大正5〜6年にかけて海浜ホテルの近くに住んだ(以前ご案内してます) 後、この近くの借家で新婚生活を送っています。この時期は「地獄変」「蜘蛛の糸」「奉教人の死」などを発表した充実期でもあったとか。 境内にある説明板に、『或る阿呆の一生』の一説が引用されていました。「彼らは平和に生活した。彼らの家は東京から、汽車でもたっぷり1時間かかる或海岸の町にあった」。境内にある大銀杏を龍之介夫妻も見上げたことでしょう。 |
▲ 由比若宮案内板 | ▲ 由比若宮 |
戻ってさっきの道を右折し、水道道を横切って進むと左手に妙長寺があります。 泉鏡花は明治24年の夏(18歳)、ここに滞在しています。ここでの経験が、「星あかり」ほか、2、3の作品に生かされているようです。 よく知られている幻想的な『高野聖』は35歳の時の作品です。 水道道を右折し、小さな踏切を渡った先に、岩波書店の経営に尽力した小林勇が住んでいた所があります。16年から没年の56年まで扇ガ谷に居住しています。 編集者時代に幸田露伴を訪問して以来、20年以上も家族を含めて交流のあった回想記、『蝸牛庵訪問記』を書いた随筆家でもありました。 メジロが梢にとまっています。ミモザも咲いていました。 |
▲ 横須賀線 | ▲ 白梅 |
『清貧の思想』でベストセラー作家になった中野孝次は、こけ寺として知られる妙法寺の裏手に住んでいました。 昭和25〜27年にかけて台、山ノ内に住み、神奈川文学振興会理事長をも勤めています。中野は『セネカ
現代人への手紙』で、「将来のことはすべて不確定のうちに存する。 今直ちに生きなければならぬ」と書いています。 筆者が最近読んだ本にも釈迦やキリストがまた千日回峰を2度達成した天台宗大阿闍梨酒井雄哉(81)も「今が一番大事だ」と語ってます。 |
▲ 巡礼古道 | ▲ 妙法寺 |
歌人であり武者小路実篤、志賀直哉らと交流し「白樺」の創刊にも参加した木下利玄は大正8年大町に転入、没年の14年まで居住してます。 写実的手法と口語を取り入れた利玄調を確立し、大正歌壇を飾ったとか。歌集『紅玉』『一路』。 |
▲ 安養院 | ▲ 安養院界隈 |
戻って、「安養院」近くに、歌人で歌学者の佐佐木信綱が大正10年に、別荘「溯川草堂」を構えたところがありました。ここを執筆の場とし川田順、木下利玄らの門下生を育て鎌倉の文人とも交流しています。 濃いベージュの建物を指して、「この家あたりだと思います」と言いながら右折してビックリしました。その家の表札に「佐佐木」とあったからです。 今回は時間がなく、下見をしていませんでしたが、こういう思いがけない嬉しい出会いがあるのですね。 |
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