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鎌倉の散歩道  ・・・・・・  33
鎌倉文学散歩  (4)

− 江の島駅から長谷へ −

 今日は金子晋さんが書いた『江ノ電沿線文学散歩』を参考にして、江ノ島駅から長谷まで歩きます。
歩き始めてすぐに想定外のことが発生しました。ここの商店街に、砂糖と塩の配合按配がよいせんべい屋さんがあるというのです。
で、その大黒屋さんに立ち寄りました。販売期間限定の「桜せんべい」が置いてありました。大島桜でしょう、花びらが2つ入ってます。編集員の1人が6枚入り450円の袋を買いました。

江ノ島駅 桜せんべい

 その先の龍口寺に入りました。本堂左手に、「日本一の白椿」が咲いていましたが、花もさほど多くなく、樹に勢いがありません。枝全体が真ッ白になるほど咲いていたそうですが、タイワンリスに花を喰い荒らされて、普通の椿になってしまっています。
 門前、左手に饅頭屋の「上州屋」さんがあります。大正元年に志賀直哉は、老人や子供を連れて『鵠沼行』をしていて、「石段の下の饅頭屋で休んでいる」とあります。入って、直哉のことを話したら、おかみさんが聞いたことがあると。記者は上州に疎開したことがあったので、初代は群馬のどこの出身か尋ねましたが、分からないと。名前を聞いたら婿に入っているので腰越に多い新倉ですとの返事。
 今は7代目で、8代目も決まっていて、浅草に修行に行ってるとも。後継者問題はクリヤしています。

龍口寺 上州屋の饅頭

 江ノ電通りを行きます。今、江ノ島〜長谷には、駅は7つありますが、昭和8年頃は13もありました。腰越の次は、谷戸、小動で、七里ヶ浜の次は「行合」でした。駅間距離は100mもなかったのではないでしょうか。

 腰越には、推理小説家の斉藤栄が住んでいて、岡本に仕事場を持っていました。湘南高校時代、石原慎太郎らと同人誌「湘南文芸」を発行しています。
小動神社に寄った後、古東海道だと説明を聞いたことのある坂を下りて浜に出ました。

江ノ電通り 小動神社

 ワカメが物干しばさみに吊るされています。小動岬は海食を防ぐためテトラポットで囲まれていますが、その辺りでしょうか、昭和5年に、太宰治が銀座のカフェの女給と入水心中を図ったのは。近くにある病院に担ぎ込まれたそうです。太宰は5年後にも、鶴岡八幡宮の裏山で縊死を企て未遂に終わっているとか。

 昭和初年に長与善郎が刊行した「重光」に、江ノ電の車窓からの七里ヵ浜の感懐が記してあります。「‥‥いつもここを通る時のように、自分は海の側に席を移し、心ゆくばかりこの久しぶりの開潤な景を眺め、海気を吸うべく開けた窓に肘を突いた。‥」

 今の鈴木病院と思われる鈴木療養所に、吉野秀雄が大正14年に、葛西善蔵が昭和2年に入院しています。そして、吉井勇は、「秋の風ほのかに吹けば相模なる七里ヶ浜の潜水夫(もぐり)さへ泣く」という歌を残しています。伊勢海老とか鮑を採っていたのでしょうか。

ワカメ干し 由比ガ浜

 海岸線の道と別れて江ノ電沿いの道に入った先に、有島三兄弟(武郎、生馬、里見惇)の一人生馬が住んでいた洋館がありました。記者はそれを見た記憶があります。晩年、ここで画業にいそしみ、昭和49年に天寿を全うしたそうです。

 昭和7年の初夏の夕暮れどき、一人の新聞配達の少年が、味岡という表札のある家の前で、作家の大仏次郎と出会っています。市内の野球場で投手として投げている姿を何回となく見て知っていたそうです。味岡太郎左衛門という主要人物が出る大仏の少年小説が発表されたのは、それから幾許かの後だったといい、この少年が冒頭の参考書の筆者の若き日の金子晋氏だという挿話が書いてありました。それで、我々はミーハーになって、付近の表札を見て回りましたが、当然と言うべきでしょうか、ありませんでした。

 明治35年2月から、御霊神社の境内やその付近に住んでいた国木田独歩は、坂の下から稲村ヶ崎への散歩を楽しんだそうです。文学館の庭に石碑が建つ小牧近江は、稲村ヶ崎駅周辺や、音無橋近くに二階家を建てて住んでいて、『銭形平次捕物控』の野村胡堂も稲村ヶ崎駅近くに住んだとあります。捕物帳の元祖、岡本綺堂にあやかり、「き」より少し下がった「こ」にしたのでは、と愚考し話をしたら、獅子文六は、逆に、文士、文豪の上をいく文六なのだと仲間が言いました。愉快です。

稲村ヶ崎 ボート遭難慰霊像

 また、海岸線に出ました。そこには、「ボート遭難慰霊像」が建ってます。明治43年1月23日午後、江の島からの帰途12人が遭難。開成中学と兄妹校である鎌倉女学校の教諭三角錫子が作詞したのが、「真白き富士の根で」始まる「七里ヶ浜の哀歌」です。      

 長谷では、先述したように国木田独歩が住み、大正5年には萩原朔太郎が、御霊神社と坂ノ下海岸の中間にあった海月楼に滞在して、『月に吠える』を編集しています。そして、吉井勇も坂ノ下の「力餅家」近くの二階家に住んだそうです。

 夏目漱石は明治44年、光則寺付近の杉山別荘に1泊して、小坪に遊んでおり、久保田万太郎も、光則寺門前にあった旅館「和光」で仕事をしているとか。

 のんびり歩いて、2時間半。4人は次の取材先の小町に向かいました。

制作:太郎/亜郁  協力:りんでん/ひろさん

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