最新号

リレー随筆 (No.74)

 20年ほど前になると思います。テレビで、事件や事故の様子や街中などが立体の画像で紹介されるのを目にするようになりました。モデル化された現場を異なる角度から見せたり、 建物をズームアップし、さらに中に入って内部を紹介するといったものがあり、どのように 作るのか、大変興味を持ちました。

 その後(2001年)あるかたから、三次元のコンピュータグラフィックス用のソフト「Shade」(シェイド)を紹介されました。 以来とりこになってしまいました。身の回りで一緒にやるかたがおられたら、情報交換ができてありがたいと思う反面、 だれもやられていないので、ここまでやってきたという面もあります。

 この世界も、ソフトは異なりますが、3Dプリンターの普及で、若いかたを中心に広まってきています。 どのように作るのか興味のあるかたもおありかと思いますが、そこは省略して、作ったものをご紹介させていただきます。

3DCGで何を作るか

1.現存するものを作る

習うかたは、まず身の回りのものなどを作ることからはじめることが多いと思います。 その " 物 " が作れるかは、どれだけ " 腕を上げたか " ということへの挑戦です。

2.過去に存在したものを作る。

 例えば、遺跡や過去に存在した建造物などの再現です。その詳細は不明のことが多いので、 " おおよそこのようなものであったか " というものになります。

3.想像の世界を作る。

創造・想像の世界、アニメのキャラクターを作ったり、 ファンタジーな世界を作ることでしょうか。私はほとんど作りません。


それでは以下、作品をご覧いただければ幸いです。

1.現存するものから

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英勝寺の山門と仏殿

左の画像は、鎌倉で唯一の尼寺といわれている英勝寺の山門と後方の仏殿です。この山門は関東大震災で倒壊しました。当時お寺は経済的にも困っており、薪として売り出そうとしたところを、篤志家の間島弟彦氏によって買い上げられ、永く邸宅(後に似鳥氏の所有となる)の一角に 保存されていました。近年英勝寺に戻す機運が高まり、平成13年に山門復興事業事務局が発足(私も事務局のメンバー)、平成19年に着工、平成23年5月に完成、落慶式が行われました。
 仏殿、唐門、祠堂、鐘楼とともに、 江戸時代の初期(寛永20年の頃:1640年代)の創建当時の建物がそのまま残っており、これだけ揃っているのは全国でも珍しいとのことです。 平成25年に(県の文化財から)国の重要文化財に指定されました。

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左の画像は、山門をぐるっと回転してみることができるようにしたものです。 3DCGならではのものです。

(画像をクリックしてください。新しいページが開きます。
1.5 秒間隔で画像が変わり、2 回転して終了です。
終了したら新たに開いたページは閉じてください。)

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鎌倉円覚寺舎利殿

 鎌倉の木造建造物で唯一の国宝、円覚寺舎利殿です。 解体図面(中央図書館蔵)と県立歴史博物館にモデルがありますので、 それをもとに作成したものです。
 部材の形は繊細で優雅です。
 (マウスポインターを画像の上にのせると、構造がご覧になれます。垂木は省略しています。)
 建物の構造を上から眺めることはないので、ちょっと変わった気分を味わえます。

 

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姫路城

 訪ねられた方も多いと思います。
 複雑な建造物ですが、作ることによって、大天守・小天守などがどのように配置されているか、頭に入りました。
 (以下は、姫路城で入手した冊子によっています。)
 姫路城は、1333年、ここ姫山に赤松則村が砦を築いたのが始まりで、 1346年に赤松貞範が本格的な城を構築。その後豊臣秀吉も関係し、1600年関ケ原の戦いの後、池田輝政が城主になり、 1601年に大改築を開始、9年後に完成。さらに本多忠政が拡張、1617年に現在の全容が整ったとのこと。

 " いちま~い、にま~い " とお菊の悲しい声が聞こえてきたという「番州皿屋敷」の井戸(「番町皿屋敷」しか知らなかったので 戸惑いました。)、老婆が少しでも築城の助けになればと寄進した石臼「姥が石」、 宮本武蔵の妖怪退治などの伝説にもこと欠きません。
 ガイドさんのクイズのなかに、" 城主は1年間に何回天守閣に登るでしょうか。" というものがありました。
何人かのかたの答が外れ(皆、回数が多かった)、私は少ないほうに山をはって、13回(毎月1回と正月)と答えましたが、これまた外れ。答は " たった1回 " だったと思います。

2.遺跡・過去のものを再現する

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今小路西遺跡

 遺跡は鎌倉市立御成小学校の敷地内、主要な部分は、西側にある校庭(下)にあります。
 発掘は、昭和58年の試掘で始まり平成4年まで5次にわたり、異例の大規模な調査でした。当時私はあまり鎌倉の歴史に関心がなく、一度発掘現場を見学したのみで、今から思うと残念です。
 校庭をおよそ中ほどで南北にわけるように2つの武家屋敷と推定される遺跡が発掘されました。
 北側では、礎石を持つ大型の建物も見つかりました。質の高い陶磁器類が出土し、六角形の枠をもった井戸、 玉砂利を敷いた中庭など、武家の住まいとしては大変 " 贅沢 " な生活を思わせるもので、北條家の主流かそれに近い上級武士の屋敷と推定されています。
 発掘された陶磁器は、青磁・白磁・青白磁などで、韓国の新安沖で見つかった沈没船の積荷と 共通するもので、14世紀前葉のものと考えられるとのことです。
 一方、南側の屋敷は対照的で、南東側に広場があり、流鏑馬・笠懸などの武芸の訓練が行われたのではないかと推測され、いわゆる武家らしい屋敷と考えられています。
 発掘調査報告書は難しいうえに、建造物は時代とともに立て直されたり、焼失して再建されたりと、いく層にもなるので、 どの時点のものを再現するかなど素人には手を出しにくいです。不完全とは知りつつ、あえて作ってみました。

 

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太田道灌構築の江戸城

 (この記述は『復元図譜 日本の城』 西ケ谷恭弘著 理工学社によっています。)
  江戸城といえば徳川家康ですが、その前に太田道灌が建てた江戸城があったこともよく知られていることです。しかし、 それがどんなものであったかを知る機会は少ないかも知れません。
 城の様子を記した「詩板」があって、それによってある程度推測できるということです。
 この詩板は、(図の南端にある)「静勝軒」という高閣(望楼)に掲げられていたそうで、この高閣は、金閣・銀閣のような建物がいちばん上に乗り、そこからの眺望が大変よかったということです。
 この詩板は小田原城にありましたが、豊臣秀吉との戦いの際に持ち出されその後不明となったそうです。その一部の写しが 鎌倉の荏柄天神に伝えられています。「江戸城静勝軒詩序並江亭記等写」(紙本墨書)です。
 (余談)NHK大河ドラマ「真田丸」では、小田原城の開城に向けて、真田信繁がおもむきます。黒田官兵衛という説もあるようですが 確たることは不明です。そこで三谷幸喜氏は信繁をつかったと、時代考証をしている先生が講演のなかで語っていました。(NHKラジオ第一放送 深夜便)
  ちなみに、千代田区平河町の平河天満宮はこの江戸城内(北東部)に建てられたもので、図の右上隅のものです。

 

edojo

安土城

  (この記述も『復元図譜 日本の城』によっています。)
 安土城(天守閣)については、『信長公記』や宣教師による記述もあり、復元図もいろいろありますが、不明の点も多いということです。
 天守というのは当時すでに存在しましたが、安土城の天守閣が "以後の城郭に「天守」という象徴的な建築を定着化させるはじまりとなった。" とのことです。
 七層の構造で、初層は二重になっていて柱は黒漆、障壁画で飾られ、三層・四層目は花鳥・鳳凰などの障壁画で区切られた座敷、 五層目は南北に破風がある部屋、六層目は八角形で、柱は朱、内部は金箔、七層目は 四方を眺められる望楼となっていたということです。

 

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鎌倉海濱ホテル(鎌倉海濱院サナトリウム)

 鎌倉海濱ホテルは、現在の鎌倉海浜公園由比ガ浜地区の北側にありました。1887年に長与専斎博士(1838-1902:医学者 明治の衛生行政機構を確立 長崎県出身)により保養施設として建設されましたが、 経営上の問題で翌年にはホテルになり、これもうまく行かず売却され、大正5年に鎌倉海濱ホテルとしてスタートしたとのことです。
 長与専斎博士は、鎌倉の海水浴場の恩人といえる方です。明治18年、大磯に初めての海水浴場が開かれましたが、博士によって鎌倉が海水浴場に最適と紹介されたことで、鎌倉が海水浴場として有名になったとのことです。
 ホテルは、作家などの有名人の利用も多かったとのことですが、終戦直後に進駐軍が使うところとなり、昭和20年の12月24日に焼失、歴史の幕を閉じました。
 向かって左手の部分、手前はビリヤードなどの遊技の部屋、中ほど左手が厨房、奥が食堂でした。反対側、右手の部屋の前は開放されていました。 植木などを配置すると一層雰囲気がでるのですが・・・。

 

3.想像の世界を作る。

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スカイツリーと龍・ゼロ戦

 スカイツリーと龍は辰年に年賀状として作ったものです。
  (マウスポインターを画像にのせると、切換わります。)
 こんなことができるのも楽しみのーつと言えるでしょうか。

 

 ご覧頂きありがとうございました。