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編集部員のリレー随筆(60)

私が入ったランニングクラブとその仲間たち

作者:亜郁


 私のマラソン歴は、記憶をたぐり、アルバム「マイ・ランニング・ライフ」や、日々の詳細な記録「マイ・ランニング・データ・ファイル」を見ると、およそ32年にわたります。その中で、いろいろな走る会に参加し、仲間も多くできました。それを振り返ってみたいと思います。

  1. 走り始めのころ

      当時勤めていた会社の職場仲間に誘われて、終業後、走り始めたのが最初でした。川崎の県営埠頭に走って行きました。焼けた鉄の臭いがした中を走ったのをはっきりと覚えています。仕事の都合もあり、週に2,3回程度、走っていたでしょうか。まだ、走る楽しさを味わうという所には行ってませんでした。

  2. 深沢健康マラソン、深沢健康ジョギング大会

      深沢青年会が主催した、「深沢健康マラソン」5kmコースを走ったのが大会参加第1号でした。1980年11月2日。「皆んなの速いのに驚く」とアルバムにあります。その後、主催が深沢商工クラブに移っています。このころには、二人の息子を早朝ジョギングに誘い、近所を走ったり、この大会に参加したりしています。

  3. 深沢ランニングクラブ(現鎌倉FRC)

      この大会で、深沢中学校に集まって走る会があることを知り、入会したのが深沢ランニングクラブでした。 毎週日曜、走るのが少し楽しみになってきました。しばらくして、私の1カ月の「走りの記録」をコピーして 会員に配りました。これを半年ぐらい続けて、翌年、会報の発行を提案し、初代編集長となりました。「FRC だよ里」創刊号は1983年3月20日に発行されています。そこには、「三浦に18人、青梅に9人参加!」とあ り、参加者の距離とタイムが表示され、感想文も載ってます。「去年の三浦(5k)から1年かかって30kまでき た。フルマラソンにそろそろ王手がかかる。とにかくうれしい」との私の感想が載ってます。

  4. ホノルルマラソン

      この前年、FRCの仲間と「ソード三浦国際市民マラソン」を走った時の沿道のヤングギャルたちの声援にすっかり嬉しくなり、ホノルルマラソンに行きたい、積み立てを始めようではないか、と興奮気味に提案して、それもこの年に実現してます。大手旅行社「近ツリ」が主催したツアーに、会社の仲間にも呼び掛けて、走っています。このときの会報は、10人の仲間の感想が5ページ余りも。私は、「アメリカの豊かさ、陽気さいっぱいの声援」、「ブロークンイングリッシュと千社札でつくる新しい友人たち」と書いていますが、無論、これに飽き足らず、個人的な「83ホノルルマラソン<1>〜<3>」をも作っています。

  5. フル100回楽走会

      FRCに入って地元に仲間ができたのは当然ですが、外部の熱心でユニークな仲間たちに出会ったのは、この会に入ってからです。会長のTさんが、「ジョイマラソン」を自費出版し、その祝賀会に出て入会しました。
    事務局長のYさんがPCを駆使して、会員のいろいろな記録を浮きぼりにしてくれます。日本一は誰それで、年内に5百回を達成しそう、47都道府県国盗りマラソン達成者とか。47都道府県飲み潰しの記録の投稿もあったり、4人の外国人の入会もあり、インターナショナルの会でもありました。

  6. 鶴岡100k Marathon Assciation

      上記の本から幾つかのことを学びましたが、最大の収穫はこの会を知ったことです。全国に会友を持ち、当時は毎日、"じゃあーなる"という会報を無料で送るというので、送ってもらうようにしました。24時間リレーに参加したり、初のウルトラ、100k走大会にも数度、後半は単身赴任先の大阪から出かけてます。
    地元の会員のS夫人が、初フルを走るという「かすみが浦マラソン」では、途中まで伴走しましたが、後塵を拝してしまったことも。24時間リレーには、ワープロを担いで参加しました。このときの記念誌には、「さあ〜木暮講師のワープロ教室の始まりです」と、夜、大勢のランナー、スタッフが額を寄せ集めて、画面を見つめている写真が載っていました。代表のKさんが、三崎に、勤め先の加茂水産高校の練習船の定期修理の検収に来たときは、出かけて、酒を飲んだりもありました。

  7. 相模原市市民走ろう会

      走る人の雑誌で、「坂東33ヶ所観音霊場めぐり」を知り、仲間入りさせてもらって、私のマラニックが始まりました。「マラソン・ピクニック」の略です。電車で行って走り、戻ってきて、次回はそこからスタートです。旅好きの私には、関東各地の初めての所を走れ、素晴らしい経験でした。これが完走した後も、「神奈川県境一周チャレンジ」にも、途中から参加してます。ゴールは市役所でした。会を主宰していたHさんが、長野に引っ越した後、そのお宅を訪ねて行ったこともありました。

  8. 武蔵野の路ウルトラマラニック

      奥多摩を除く、東京都境約270kを3日で走ろうという会で、走力によっては夜遅くの宿への到着もあり、厳しい大会です。女性ランナーが主催しています。記録集を作ろうということになり、「'96武蔵野の路ウルトラマラニック物語」(B5、厚さ3cm)を作りました。私の分は、ハードカバーに仕上げてます。

  9. 関東マラニックの会

      大手電機メーカーT社の中研の人たちが、昼休みに多摩川大橋から六郷橋を回る走る会が、「友達の友達は友達だ」として、会員を関東近郊に住むランナーへの呼びかけで入会したのがこの会です。毎月1回、電車に乗ってあちこちに行き、10数キロの景色を、会話を楽しみながら走るものです。入会したときは、「首都圏自然歩道2,138km」を7年3カ月を要して大団円を迎えようとしている時でした。「ゴールはビール」が合言葉で、ゴール付近での打ち上げにとどまらず、帰りの車中でもやります。「A列車でなく、宴会列車」で帰ろう、です。那須を走った後、奥州街道沿いにあった店で鮎の塩焼きを買い、箒川に入って汗をぬぐい飲んだビールのうまさ、帰途、那須ケ岳のシルエットが印象深いです。

  10. 石神井サンデーズ・RC

      8、9 の会を通して知りました。会報は当時、Tさんが編集していましたが、毎月1度の例会の記録が精緻を極めていました。例会のタイムを棒グラフで示すなどユニークでした。亡きSさんとの楽しい思い出もあり、追悼私集「駆け抜けた私との3カ月半」を作り、ご遺族に贈りもしました。

  11. 東海道を走る会

      東京江戸川区に勤めるTさんが主催して、年末年始、1週間ほどをかけて、去年は東京・日本橋→京都・三条大橋、今年は逆走という具合に東海道を走る大会です。私はこれには参加していませんが、ランナーの奥さんには寂しい思いをさせたとして、日本橋→三条大橋を歩く会を催してくれたので参加しました。暑い時期を避けて、10カ月×2日で踏破しました。小田原から先は、初日ゴールしたところで泊りでした。宮〜桑名は船で渡ってます。当時、橋がなかった所では、水の中を渡る猛者もいました。

  12. 高砂楽走会

      5)の会の事務局長のYさんが勤めている会社の走る会です。会社が平塚にあったので、イベントを開いた時には、参加させてもらってました。

  13. 終わりに

      FRCの創立20周年記念で、青森まで駅伝で行った時、長岡の女性が主催した1泊2日の大会に参加した縁で、この女性が現れて伴走してくれたのもうれしい思い出です。山中湖畔や日光中禅寺湖の保養所を宿にした合宿、フル百の仲間と那覇に行って、ゴールの競技場手前で花火が上がり、着いたら閉門のショックもあありました。青梅マラソンでは、本社の宣伝部が作ってくれた社名入りのユニフォーム姿が、フライデーの見開き2ページの中央に載ったこともありました。出張で訪問した会社の人から、このことが話題になったとも聞かされましたし、前にいた会社の同僚からも見た、と手紙をもらいました。
     これらの走りも、関東Mの会を除いて、2年前から遠ざかりました。この会も高齢化や、故障者続出でウオーキングの部が作られ、コースを一部スキップしたりして同じ所にゴールしています。私もそこで歩いています。
      走っていたお陰で、国内のみならず、米のデスバレーやメルボルン、ニュージーランドのクライストチャーチでの大会や、オークランドの学生寮を舞台にあちこちへのマラニックも楽しめました。無論、これらの記録はアルバムに残していて、それを見れば当時を偲ぶことができます。マラソンとの出会いは、「私の宝物」です。




作者:亜郁  制作協力:ひろさん

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