■ 太田道灌との関係
英勝院は、太田道灌、資康(道灌の子)、資高(孫)と続き、4代目の(ひ孫)康資の娘で、幼名はおやつといわれています。 父の康資は大男で力が強かったということです。
その康資は、小田原北条氏にしたがっていましたが、やがて太田家の再興を描き、北条氏に叛くようになりました。 しかし利あらず、安房の小湊あたりに隠れるようにしていたそうです。
康資は後年剃髪して武庵と名乗り、永禄9年(1566)に没しました。
康資の子には、おやつの兄、重正(政)がおりました。
■ 徳川家康との関係
天正十八年(1590)、豊臣秀吉は小田原城を囲み北条氏を攻め、降します。そして、秀吉は、徳川家康を関東に移封します。
8月に江戸城に入った家康は、関東にある諸名家の士を招きます。
このとき、太田道灌の子孫である太田家も含まれており、太田重正が呼ばれました。
重正が家康に招かれたときには折悪しく京都におり、やむなく、代わって13歳であった妹のおやつ(於八)が参内しました。
おやつはお梶と名を改め、やがて家康の側室になります。非常に聡明で家康の寵愛を受けたということです。
慶長5年(1600) 関ケ原の戦いに、男勝りのお梶は家康について行きます。
戦勝した家康は、お梶をほめたたえ、勝(かつ、または かち)の名前を与えます。
慶長8年(1603)、家康は征夷大将軍になりますが、慶長十年(1605)には秀忠に将軍職を譲ります。
慶長12年(1607)に家康が駿府に移ったとき、お勝の局も従いました。
元和2年、家康が没すると、お勝の局は髪を下ろし、仏門に入り英勝院となります。