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編集部員のリレー随筆(42)


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 英勝寺山門(神奈川県指定の重要文化財)の復興のお話をさせていただきます。
  (中には諸説があるものもありますが、英勝寺の立場で書きますので、ご容赦ください。)

 英勝寺はJR鎌倉駅(西口)から北に 800 メートル ほど、鎌倉五山のーつであった寿福寺の北隣です。

 英勝寺には、仏殿(県指定重要文化財)、鐘楼(同)、唐門(同)、祠堂(同)があり、すべて江戸初期の寛永年間(1624-43)に建てられたもので、山門が加わると、5つの建物が揃って江戸初期の姿をよく残しているということで、全国的にも珍しいといわれています。

仏殿 鐘楼 唐門 祠堂 山門 (CG)
鎌倉の古建築 「英勝寺」 へリンク


 また、寺を開いた(開基)の英勝院 (1578-1642) は徳川家康の側室で、英勝院という呼び方は、家康が亡くなって 仏門に入ってからのものです。 幼名はお八(おはち)、そして、お梶(おかじ)、お勝(おかつ 又は おかち)の方お勝の局 などといわれました。

徳川家康  左の写真(英勝寺蔵) の徳川家康(1543-1616)、秀忠(1579-1632)、秀忠の正室 (平成23年 NHK 大河ドラマの主人公) お江(1573-1626)、家光(1604-51)、徳川頼房(1603-61:水戸徳川家初代藩主)、水戸黄門で知られる徳川光圀(1628-1701:水戸藩第2代藩主)、さかのぼって太田道灌(1432-86)などの歴史的な人物との関係があります。

江戸城 太田道灌が築城した江戸城の想定図: 家康が入った頃もこのようであったでしょうか。(クリック)

 近年、人力車が人気で、英勝寺あたりもコースのーつになっています。
車夫の人が お勝の局 がいかに聡明であったかということを伝えるエピソード
(およそ世の中の食べ物で一番旨いものはなにか、また一番不味いものは・・・)を必ず語ります。

この話で耳にタコが出来ているかたはクリックしないでください。


■山門を建てたのは高松藩 (12万石) 藩主 松平頼重 (よりしげ)

 山門は高松藩主松平頼重(1622-95)という人によって、英勝院がなくなった翌年の寛永20年(1643)、そのー周忌にあわせて建立されました。

 頼重は、英勝院の養子となった父 水戸徳川家の初代藩主 頼房の 長男です。なぜ山門を寄進したのか、少しさかのぼりましょう。

主な登場人物関係図

 すでに触れましたが、英勝院は、家康が亡くなったのち出家しますが、 家康の側室で、お梶、次いでお勝お勝の局)と呼ばれました。
 (左: 厨子に入った法体の英勝院

 慶長八年 (1603)、家康との間に女の子が生まれました。家康16番目の子で、女の子としては5番目で、市姫と名づけられました。

 ところが3歳で早世してしまいます。 悲しむお勝があまりにも不憫なので、家康は11男の頼房お勝の養子にし、お勝の局を母親代わりとしました。

 頼房は3歳で早くも常陸国下妻10万石、そして慶長14年(1609)には水戸25万石の藩主となりました。そして 20歳のときに長男 頼重 を生みます。

 (話は核心に入ります。)

 しかし、この時 兄の尾張の 徳川家義直 や、紀伊 徳川家頼宣に嫡子がいなかったため、畏れ多いこととし、頼重 を亡き者にしようとしました。
(万が一将軍に世継ぎの問題がでたとき、尾張や紀伊にくらべ水戸家は格が低かったので、男子の誕生をはばかったためと言われています。)

 始末を命じられたものが哀れと思い、お勝の局に訴え出ます。頼重は救われ、京都天龍寺の塔頭慈済院に預けられ、やがて出家するはずでした。

 しかし、ここでも英勝院の働きかけで、将軍家光に拝謁することが出来たり、寛永16年常陸国下館5万石の藩主となり、寛永19年5月(1642)英勝院の計らいもあって、高松12万石を与えられることになりました。しかしながら、その年英勝院は病の床につき、8月に亡くなってしまいます。

 高松に赴いたばかりの頼重は、亡くなった時には来ることが出来ず、大変残念に思ったことでしょう。

 そして、寛永20年 (1643) 英勝院のー周忌に当たって、父の頼房によって、仏殿(大幅な改修と思われる)、鐘楼、唐門、祠堂などが建立される中、頼重山門を寄進しました。

境内図




 頼重が建立の山門棟札
 「寛永廿癸未歳 奉敬立相州英勝寺山門 従四位下侍従源頼重朝臣
 八月十六日
」 とあります。



 平成23年2~3月に、茨城県立歴史館で、「頼重と光圀 -高松と水戸を結ぶ兄弟の絆 -」 という特別展が行われます。
 水戸にを見にいかれるかた、ぜひこちらにも。

 英勝寺に山門が復興されると、水戸・高松・鎌倉という三角の絆が結ばれるものと期待されます。

■山門復興の経緯

山門復興想定図

■ 山門が関東大震災(1923)によって倒壊する。

■ 当時は復興の力もなく、薪として売り出されたところを、篤志家の目に止まり、買い上げられ、敷地の中に再建、保存される。

■ 保存の地が宅地開発の対象となり、平成13年に関係者の協力により復興の活動が始まる。山門は解体され、お寺に80年ぶりに帰る。 そして、解体された部材のまま県の重要文化財に指定される。(これは異例のことだそうです。)

■ 県・市・お寺・檀家さんで行われる事業のところ、文化活動と捉え、多くのかたにご支援をいただくため、平成13年の10月に山門復興事業事務局が発足。

■ 鎌倉学習センターや鎌倉商工会議所での、永井路子氏(作家)、安西篤子氏(作家)、大三輪龍彦氏(鶴見大学教授:故人)、三浦勝男氏(前鎌倉国宝館館長)、内海恒雄氏(歴史研究家)の講演会や、鎌倉芸術会館での「声明」、寺内の書院での、朗読の会、琵琶の会、お花見の会、お月見の会、仏殿でのリサイタルなどを催し、多数のかたのご支援をいただく。
棟上式 ■ 平成19年に建設がスタート
■ 平成21年12月に棟上式。(写真右)
■ 平成23年5月(16日予定) 落慶式 を行う運びとなる。


■山門の特徴

山門のムービはこちら(クリック:ダウンロードに時間がかかるかもしれません

小さい写真 (サムネイル)に マウスポインタ をあててください。

 桁行 (正面) 三間 約 6.4m、梁間 (奥行き) 二間 約 3.8m、二重門
柱 出組 配置




 初層は、柱が端が丸く削られた (ちまき) 付で(写真上左) 、斗栱は実肘木挙鼻付の出組です (写真上中)。 中央の柱と柱の中間には同じ斗栱を配しますが、そのほかのところは蟇股 (かえるまた) が配されています (写真上右)。 蟇股は下の写真。
蟇股1 蟇股2

 入り口の上には、虹梁がかけられ、内法貫に枡を載せて支えています。(写真下)
虹梁
高欄  上層は、禅宗様高欄をめぐらし、窓は格狭間 (ごうざま) 風の輪郭を持つ花頭窓、又は眼象窓 (げじょうまど) とよばれる比較的珍しい形のものです。
(北鎌倉円覚寺の山門も同じ形の窓です。)
 二手先斗栱を柱の上と、柱と柱の間に配します。(写真上・下)

軒周り  斗栱の後ろ側の壁は雲文の彫り物、肘木にも絵様刳形 (えようくりがた:渦や波・雲のような装飾用彫り物) があり、装飾性に富んだものになっています。
屋根  屋根については、初層が二軒繁垂木、上層は二軒扇垂木です。初・上層ともに瓦棒銅板葺きで反りがなく、仏殿その他の建造物と同様です。

  後水尾上皇宸筆の「英勝寺」の扁額を掲げており、神奈川県指定重要文化財です。

■ おわりに

  松平頼重がー周忌にあたり詠んだ「英勝院追善詠」が残っています。

頼重英勝院にたいする思いが伝わります。

 「去年の今日 今年の今日をなぞらえて 恋しき人に会うてや見なん」

 「嘆きても 帰らぬものと 知りながら とは思えども 濡るる袖かな」

 「こころざし 願う誠の道ならば 手向けと思え 法のー筋」

 寛永廿年八月廿三日 松平右京太夫頼重

羅漢1 羅漢2  (山門に祀ってあった) 復興を待つ 十六羅漢 さん。 励まし、祈ってくれているようです。
(現在 宝蔵庫に保管中)
制作:泉ノ井 (英勝寺山門復興事業事務局 メンバー)



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