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編集部員のリレー随筆(15)
新大橋と浮世絵
橋のある人生 1  制作 みだれ橋

 隅田川に架かる「新大橋」は、河口の勝鬨橋より数えて七番目の場所に架けられた、元禄6年(1693)以来の歴史ある古い橋である。隅田川では両国橋の次に架けられた橋であることから「新大橋」と呼ばれたと云われている。

ホームページ「鎌倉の史跡を歩く」のプロフィール「PCと共に歩む」に次の様に述べている。「第二次世界大戦中に学生生活の大半を過ごした私と橋との出会いは、当時地震研究所長N博士指導の下に実施した卒業論文より始まった。 長い間の戦争により荒廃した隅田川に架かる橋の健康診断実施のために、自作の起振機(橋や建物に振動を与える機器)や振動測定器等を使用、橋の固有振動数及び変位等を測定して橋の健全度を測定した」。

多数の橋梁の調査を実施したなかでも、隅田川の新大橋の荒廃状態が酷かった事は今でもハッキリと覚えている。この新大橋は明治 45年(1912)に架け替えられたピン結合にて組立てられたトラス形式の鋼橋で、建設当時の明治時代においては、ヨーロッパスタイルの近代的で大変にモダンな橋梁であった。

しかし長年の戦争により十分なメンテナンスが行われず、更に隅田川流域に見られる橋梁の多くは、関東大震災後の復興局時代に再建された新しいデザインの橋梁であった。これ等の近代的なデザインの橋と比較するには、新大橋は名前とは逆に大変に古い感じであった。

現地調査をして特に驚いた事は、車や人が通るコンクリートの床版に穴が開いており、そこから下の河原が見えていたのを今でもはっきりと覚えている。その後、新大橋は近代的な斜張橋(左下図参照)に架け替えられ、明治時代に架けられた古い橋の一部は、名古屋の名鉄が運営する明治村に保存(右下図参照)されている。 
                                  

  最近の新大橋(斜張橋)                  旧新大橋の一部(明治村) 

 この新大橋の歴史は古く、今から300年前の元禄6年(1693)12月7日に架けられた。隅田川では両国橋に続いて3番目に古い橋で、橋長は約197m橋幅は約6mの規模であったと云われている。

俳聖松雄芭蕉は、この新大橋のある付近の深川元町に住んでおり、新大橋の工事に大変に興味を持っていたようである。

工事の際の状況を芭蕉は次のように俳句によんでいる。

         「初雪やかけかゝりたる橋の上」
 
橋が完成して渡り初めの際には次の句がある。

         「有りがたやいたゞひて踏はしの雪」

また、新大橋の完成を感謝して次のような句を詠んでいる

         「みな出て橋を頂く霜路かな」」

新大橋はその後に何度も破損流出等があり、明治になって西洋式の木橋により架け替えられたが、その後の明治45年(1912)に網橋のトラス橋に架け替えられた。このトラス橋は、その後も補修を実施するなど長い間に亘り使用していたが、昭和52年になって現在の2徑間連続の斜張橋として大変にスマートな橋梁に生まれ変わった。

江戸時代の浮世絵師・歌川広重は安政3年(1856)から6年にかけて「名所江戸百景」を描いた。この江戸百景の一つに、新大橋を「大はしあたけの夕立」として掲載されている。(左下図参照)


   (左)広重の「大はしあたけの夕立」 (右)ゴッホの模写絵                        
大橋の絵

後期印象派を代表するオランダ人画家ゴッホは、当時の流行のひとつであった浮世絵に触れて、日本に憧れを抱くようになった。ゴッホが特に影響を受けたとする浮世絵は、歌川広重が描くところの「大はしあたけの夕立」で、ゴッホ自らこの絵の模写をしたことで有名である。(右上図参照)
新大橋は東洋の芸術家の広重とヨーロッパの芸術家ゴッホの両雄により描かれる栄誉を受けるなど、橋は単に川を渡るための道具だけではなく、洋の東西を問わずに多くの人々にロマンの心を与える優美な構造物である。アランの芸術論に書かれていた「力学的にも完成されている構造物は芸術的にも美しいものである。」との言葉が思い出された。                                                               

制作 みだれ橋

みだれ橋のホームページ 「鎌倉の史跡を歩く」


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